2011年12月8日木曜日

「古い人を脱ぎ捨てる」(災いを転じて福となす)


「新しい人になろう」(災いを転じて福となす)

先月後半、夜に寝ている間に、首の頸椎の辺りがうっ血するというトラブルがありました。翌朝、不快感はなかったのですが、何となくフワーッとしていました。首が異常を起こすと、脳自体が麻痺してしまっているので、知覚が鈍くなり、痛みとかは感じられず、頭の回転が悪かったような気がします。また翌日、音楽療法に行きましたら、内耳が過剰反応して、その晩はよく眠れませんでした。
幸い、その翌日に鍼灸治療を予約してあったので、特に首や肩のツボ中心に治していただいたら、五割ぐらい落ち着きました。しかしその後も、不眠や幻聴が続き、疲れ易くて夜は早々と床に就いてしまうのです。さらには、漢方治療で治っていたはずに頻尿まで再発してしまいました。頸椎に異常はあっても、体力はあるので、日中はバザー用のタルトを作ったり、コンサートチラシを配ったりしていました。
しかし、休み明けの月曜日の午後、声楽のレッスンがありましたが、うまく歌えずに声がぐにゃぐにゃに流れてしまい、自信をなくしてしまいました。翌火曜日、音楽療法を再度受けて、声がやっと真っすぐになり、精神的にも落ち着きました。しかしその晩、また眠れませんでしたので、首の周りに必死で蒸しタオルをしましたら、突然、恥骨周辺がフワッと軽くなり、血の巡りが良くなりました。首と恥骨がつながっていたことにびっくりしています。その後しばらくは、できるだけ毎日スポーツクラブに通っていました。火曜日は「自力整体」というのをやっていて、インストラクターさんが身体のメンテナンスになりますよと勧めてくれたので、初めて参加することにしました。手首や腰を逆にひねるぐらい、普段、使わない筋肉を伸ばしたりするので、全身が真っすぐになり、体調が大分回復しました。木曜日、鍼の治療に行きましたら、先生が、身体がかなり変わってしまっている、とびっくりして心配されて、治療の後、よく休むようにと言われました。

さてこの週は、東北の被災地のカトリック教会や学校に私の本をプレゼントする作業に追われました。これは仙台から戻られた松浦司教様がお疲れでいらっしゃった様子を見て、被災者の痛みが伝わってきたためでしょうか。私自身も自分の病気を癒していただけることを祈りながら、ひたすら梱包作業に励みました。

27日の日曜日は、都立大学近くのめぐろパーシモンホールで第九演奏会がありました。けれど、その晩もまた、内耳がワンワンと反響し続けて、眠れなかったので、ここ一週間、MIKIのプルーン、プロティン、エコーやバイオC、ジョイント・ビューティも、夜中に起きだして飲み続けました。こんなことは今までになかったことでした。

そして奇跡は、この翌朝に起こったのです。オーケストラ演奏を聴いた後で、左右の耳のリンパ液が大きく波動していたのでしょう。私は不思議な夢を見ました。教会でミサが始まる前に私は、そっと母の写真と「東日本大震災被災者のための祈り」と書かれたカードを見ていました。そのせいかどうかわかりませんが、亡くなった母も一緒に家族で、食事をしている夢でした。それもテーブルでなく、座卓だったのですが、突然、地震が起こったのでした。内耳がぐらぐら、していますから、リアルな揺れ感がありました。さらに、次の瞬間、私は水の中を泳いでいたのです。夢の中で左耳から右耳へと脳が優位転換していたらしいのですが、反対の耳も揺れているから、私は本当に水の中を漂っていたのでした。この水は泥水ではなかったのですが、その後すぐ目覚めて、私は津波の被災者の「いのち」をもらったのだと実感したのです。そして、私の幻聴も不眠もその日を境にピタッと止まったのです。
私の祈りが天に届いたのでしょうか。今、私は新たに生かされているという心境に浸っています。
「古い人を脱ぎ捨てて、新しくなろう」という歌がありますが、一時期、ぐらついた声も落ち着いてきて、大分綺麗に歌えるようになり、本当に、古い人がどこかに行ってしまったかのようです。

2011年11月18日金曜日

君が代」で脳はどう呪縛されるか?



小学校の頃は、補聴器を装用した左耳しか聴こえず、家族との会話も学校の授業も、騒音や音楽、すべての音が左耳、すなわち右脳で聴いていました。 そのため、楽しい音楽も、単調な「君が代」も、右の音楽脳に入っていったため、格調高いと思っている人達とは、違った受け止め方をしていたと思います。
それが今になってやっとわかったという一つのきっかけが、先月、パイオニアという音響機器のメーカーが主催する、聴覚障害者向けの音楽会でした。 伊東光介さんという、被爆ピアノコンサートに何度か出演しているピアニストと、彼の友人の田中秀忠さんという、長唄・三味線の2人のホープが出演したのですが、そのコンサートで、私は振動装置の付いた椅子の上に座り、ヘッドフォンを装着して聴いていました。 音量ボリュームを自分で調節できますので、普段、聴こえにくい音までよく聴こえるので、いつも楽しみにしているのですが、今回は特に不思議な体験をしました。
プログラムの一つに、伊東さんと田中さんが、同じ曲を、最初は田中さんの三味線だけで、続いて伊東さんのピアノと共演するというのがあったのですが、三味線の音だけでなく、右側のヘッドフォンから、小気味良い三味線のシントンシャンという音が響いていました。しかし、そこへピアノの音が加わると、三味線の音もピアノと一緒になって、左耳すなわち、右脳側に優位転換してしまったのです。
これは、私たち兄妹三人が小学校の頃から診てもらっていた東京医科歯科大学耳鼻咽喉科の角田忠信教授の「日本人の脳」及び、「右脳と左脳」論をはっきり実証づけました。 この本は母の所有物でしたが、私は母の死後にそれを見つけて、日本女子大学研究生として研究論文を書き上げたのです。
それが「君が代」とどういった関わりがあるのか、といいますとつまり、左耳しか聴こえなかった私には、小学校6年間、それを歌い続けても、天皇に対する忠誠心は全く育たず、国粋主義にならないどころか、日本語を自由に音楽のように弄びながら話していました。 また、外国語の声楽曲に親しんでいるため、時には外国人と間違えられるほどの独自のキャラクターを持つ人間に成長していったのです。 そのため、私は特に言葉を抑圧する人間、戦争中の言葉で言えば、特高とかいったようなものを嫌っています。 ですから、今回の「君が代」斉唱を拒否しただけで教師を処分したという事実を知って、私は背筋が寒くなりました。

さて、聴こえにくくても好きな音楽に満たされていた脳は、洗脳された記憶はありません。 しかし後年40歳代になって、3歳時に薬の副作用で聴こえなくなった右耳が拓くという奇跡が起こったのですが、35年以上ほとんど閉じられていた耳がまず、経験したのは呪縛(マインド・コントロール)の罠だったのです。
カトリックやプロテスタントの公立学校の先生方が、「君が代」斉唱を拒否するという心理は、マインド・コントロールの恐ろしさを知っているためだろうというのが、遅ればせながら私にもわかってきました。
ほとんどの人間が右手でペンを持ち、文字を綴ります。 そのため、右側すなわち、左脳側に言葉が右脳よりもストレートに届くのだというのが一般の左右脳論です。 右脳すなわち、感情脳が絶対天皇制を拒絶しても、左脳からそれを強制的に変えてしまう可能性があるということなのでしょう。
ある絶対音感を持っているプロのバイオリニストの友人が、耳触りな発言が耐えがたくて、耳を塞ぎたくなることがあると言っていました。 そういう状況が続くと、心因性難聴にもなります。 私も実際何度か経験していますが、成人してから聴こえなくなるということがどんなに虚しくて、辛いことかは想像できます。
先週の土曜日に麹町教会で松浦悟郎司教様の、日の丸と「君が代」斉唱の強制についての講演会がありました。 松浦司教様は、トインビーの「文明は自らのうつろなもので滅びる」という言葉を引き合いに出されておられました。 人間の五感の中でも耳は感覚の受容器がかなりデリケートに出来ていますから、無意識に怯えさせて、感情を押し殺すようなことがあれば、私たちの身体が、精神的な面だけでなく、肉体を死に至らせ、人類を破滅に導いてしまうということを日本の政治家達は知ってほしいと思います。

今、私は来春、音楽療法の専門家と一緒にレクチャーコンサートを開くための準備を進めていますが、その一つとして、声楽のレッスンを今月から再開しました。 いつもながら、思うことですが、心をこめて歌うということの難しさを痛感しています。 また昔、好きだった歌が今は一部分のフレーズが嫌いになり、そこだけ口パクで歌ったりしてしまいます。聖歌にはあまりそういうことはないのですが、「歌う」ということは左右の耳を使う技術だとすれば、建前で済ませられると思ったら、構音器官が歪み、必ずどこかで反動は起こります。 私の場合は、歌う時だけでなくても、心が伴わないと、足が痛くなり、腕が痛くなり、ある時は胸が苦しくなり、ゲルニカのような心理状況にさえ陥ります。
「蛍の光」を拒否する人はいないでしょう。「仰げば尊し」も同じです。 今は、もっとフレッシュな送別の歌が卒業式で歌われています。 「君が代」が特定の個人を讃えるものであるから、天皇よりもっと崇高なものを知っている私たちには、曖昧な思想としか感じられないと言い切る自由がある方が、世界に誇れる日本の精神だと言えるのに、と思います。

2011年11月6日日曜日

≪クリスマスの和菓子を作ろう!≫

毎年恒例のクリスマス・リース作りですが、今年は枯れ葉による放射能汚染が心配なので、代わりに可愛いクリスマス・バージョンの和菓子を作ります。一日も早く、安心して暮らせる毎日が来るように祈りましょう。

① 浮島で…「クリスマスツリー」「星」
② 大福で…「雪だるま」を作ります

☆ 日時:2011年12月6日(火)午前10:30~15:00 (午後は自由解散)
☆ 場所:森 峰子自宅
☆ 持ち物:エプロン
☆ 費用:1,000円(材料費+パーティー費用)
持ち寄りの方は500円
定員:6~7名(締め切り11/30)

(11月17日(木)には、バザー販売用のタルトを作ります。詳しくはお問い合わせください。)

手話ソングコーラスグループ メンバー募集中!



♪ グループ名:"Cross Sign Choir"(仮称)
♪ 活動場所:カトリック世田谷教会 カマボコ部屋(アップライトピアノあり)
♪ アクセス:井の頭線「池ノ上駅」又は、小田急線「下北沢駅」より徒歩5分
♪ 会費:月700円 



(内訳:施設利用料300円+教会献金200円+楽譜代、講師謝礼など。



差し入れ大歓迎!)
♪ 活動日時:当分は、第2回か第4回土曜日の午後1:00~3:00

◆第1回:2011年11月26日(土)
◆第2回:12月10日(土)
◆第3回:2012年1月14日(土)または、1月28日(土)
◆第4回:2月25日(土)
◆第5回:3月10日(土)または、3月24日(土)

♪練習予定曲:
(聖歌)「ごらんよ空の鳥」「マラナタ」「ガリラヤの風かおる丘で」「」「アーメン・ハレルヤ」など
(文部省歌)「ふるさと」「四季の歌」「さくら」「チョウチョ」「花火」「紅葉」「聖夜」など
(アニメソング)「さんぽ」「世界でたった一つの花」「小さな世界」など

♪ピアノ伴奏:内村真由実(世田谷教会オルガン奏者)、その他
♪手話指導講師:未定(当面は森峰子がテキストを使って、代行いたします)

お問い合わせ&お申し込み先:森 峰子

来春、レクチャーコンサート開催決定!

マリア・エリザベートのお話と歌のコンサート》
聴覚障害を乗り越えて―
<Maria Elizabeth’ s Lecture & Concert Lecture>

日時:2012年3月30日(金)14:30開演(14:00開場)
会場:中目黒GTプラザホール

チケット 2,000円(全席自由)

(アクセス)  東急東横線・東京メトロ日比谷線「中目黒駅」すぐ
車でお出でのお客様は、中目黒GT内地下にございます民間有料駐車場をご利用ください。
中目黒GTプラザホール  153-0051 東京都目黒区上目黒2-1-3  TEL 03‐6412‐5377

<プログラム>
「音楽療法によって、聴覚がどのように拓かれていったか」 ・・・・・・・・・ 森 峰子
「耳と声について」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ トマティス聴覚カウンセラー 森田理恵

<Concert>
「ピース君、世界を廻る」中川いづみ
“Ave Maria” “Auf Flügeln des Gesanges” “Santa Lucia”
Vocal 森 峰子   Flute 根岸美江   Piano 吉比由美子

チケット予約・お問い合わせ
森 峰子 Fax: 03―3401―8750 e-mail:
moreen@xc4.so-net.ne.jp
トマティスリスニングセンター東京 Tel: 03‐6240‐2033 e-mail:
morita@ear-voice.com

協力 トマティスリスニングセンター東京 / PHPパブリッシング㈱

<プロフィール>
森 峰子 -エッセイスト- 
Mineko Mori, essayist
聖徳学園短期大学英語英文専攻を経て、日本女子大学家政学部児童学科を卒業。
卒業論文「聴覚障害児の抱える問題と音楽ワークショップのあり方」。1994年度 エイボン女性スカラシップを受賞。2007年、日本女子大学家政学部児童学科 研究生として、「拓かれた聴覚の模索― 『右脳と左脳―その機能と文化の異質性』 からの考察」をまとめる。『マリア・ベッティの本箱』(新風舎2002年)、『マリア・ エリザベートの音楽―拓かれた耳の贈り物』(PHPパブリッシング㈱2008年)
を出版。2010年にはドイツ国際平和村支援の、2011年に平和と東日本支援 「LOVE&PEACEコンサート」を主催し、大成功を収める。
3歳時にクロマイ投与により、聴覚を落とす。以降、22歳まで補聴器を装用するが、その後は補聴器なしで音を探る中で、トマティス音楽療法に出会い、アマチュアで声楽活動を始める。

森田理恵 -聴覚カウンセラー-
Rie Morita, Tomatis Listenining counselors
学習院大学心理学科卒。トマティス聴覚・音声・心理カウンセラー、トマティス国際カウンセラー協会会員、CAV (オーディオヴォーカルトレーニング) アシスタントトレーナー。1993年、聴覚から心身の状態をとらえて、聴覚をケアするトマティス・ メソッド※のカウンセラー資格を取得。「聞こえとストレス」「聞こえとコミュニケーショ ン」「聞こえと発声」に関わるカウンセリング、発声指導に携わる。2009年2月
トマティスリスニングセンター東京設立、NPOトマティス聴覚・心理・発声ケア協会 両国支部長。

※ トマティス・メソッド・・・フランスの耳鼻咽喉科アルフレッド・トマティス博士が開発した、聴覚と発声のトレーニング。世界40カ国で実施されている。

根岸美江 -フルート-
Mie Negishi, flute
上野学園大学器楽学科卒業。桐朋学園大学研究科修了。大野明子、野口龍の両氏に師事。読売新人演奏会、皇居内桃華楽堂御前演奏会などに出演。第1回 被爆ピアノオーディション(広島県・呉市) にて被爆ピアノと共演。リサイタル開催のほか幼稚園、学校、各施設でコンサート活動を行う。

吉比由美子 -ピアノ-
Yumiko Kibi, piano
上野学園大学器楽学科卒業。久保春代氏に師事。フィンランド・クウモ音楽祭においてB.フリス氏に学ぶ。第20回ピティナピアノコンペティション・デュオ部門、 奨励賞、ソニー賞受賞。

2011年10月21日金曜日

「侍とキリスト教」を読んで



  来年の夏に東京・広尾にある都立中央図書館に行ったら、階段脇のフロアーにお勧めの新刊というコーナーがあって、「サムライとキリスト教」(ラモン・ビラロ 著 宇野和美 訳 平凡社)という本が目に入りました。 戦国時代に日本にキリスト教を伝えた、フランシスコ・ザビエルの布教を描いた歴史的小説です。
  私は、今はあまり小説を読まない方ですが、巻末にルイス・フォンテスの名前を見つけて、ちょっと読んでみようと言う気になりました。 このルイスという神父様は、フランシスコ・ザビエルの親戚だそうです。 私は来年の春にたまたま、麹町教会で福岡から来た、この神父さんのアニー・サリヴァンのヘレン・ケラー?とかいう講演会の看板を見つけ、飛び込みで聴きに行ったことがあったのです。
  その神父様は、ヘレンの話を引き合いに出して、私たちは聴覚によってではなく、視覚を通してでもなく、超越的な神を見いだすことができるということでした。 講演会の後の懇親会でちょっとお話できたこともあって、特に親しみを感じたわけではないのですがその後、五感に囚われていた感覚の鎖が解けたような気がしたので、神父様のことは忘れずに覚えていました。
  さて、「侍とキリスト教」は、フランシスコ・ザビエルと同じスペイン人が書いたもので、お話のあちこちにわざわざ、仏教とは、畳とは、刀とは、とかいったような説明の記述があり、外国人の目から見た日本が、小説の形式で書かれていて、ザビエルと同じイエズス会が経営する、麹町教会の神父様方もこんな風に日本を見ているのかなと思われて、興味深いものでした。
  何のためにキリスト教が日本に来たのか、なぜ多くの切支丹が改宗を迫られ、拷問に遭いながらも、信仰を捨てなかったのか、そこのところが私の長い間、疑問でした。  しかし時の日本は、戦国時代の真っ最中であり、私たちは様々な武勇伝に心を躍らせますが、それは氷山の一角で、その裏に悲惨な人生がいたるところに転がっていたのではないかと思うのです。 柳田國男の「遠野物語」(読んだことはないですが、ちょっとページの間を覗き見したことがあります)のような、暗い迷信と道徳観があったためではないでしょうか。 天上から光が射してくるような聖書の愛のメッセージは、たとえこの地上で命を永らえても、と思うほど尊いものだったのです。
  大日如来と間違えて、キリスト教を伝えてしまった、フランシスコ・ザビエルですが、彼が多神教の日本人に伝えようとした、唯一の神とは何か、それを伝えるのには不十分で、この作品は名作とは言えません。 しかし、フランシスコ・ザビエル自身が見た日本というものをそのまま感じ取る事ができます。
  この小説を読み終えた私は、父に言いました。「神様はあっちこっちに居るんじゃないのよ。右にいても、左にいても、上にいても下にいても、ただ一人なの。」
もともと仏教徒の父は「ふううん」と言い、「なるほど」と答えましたが、どこまでわかっているのやら。日本人にキリスト教を伝えるのは難しい、とつくづく思います。

2011年10月8日土曜日

国民投票とマインド・コントロール


 少し昔の話ですが、首都圏の某ホールで開かれた、アマチュアのオーケストラと合唱団が主催するコンサートに行ったことがあります。そのコンサートはそれなりに楽しかったのですが、コンサートが終わった後、私はその夜に嫌な夢を見ました。
 その地域が支持しているある政治家の顔が浮かんできたのです。その政治家は私が一番、嫌いな人で、その人の顔が出るため、私は数年前から新聞を読むことを止めてしまい、そのため世間の問題に疎くなってしまいました。さらにその人が毎日、新聞にでかでかと載ったある年の夏は恐怖のあまり、アメリカのニューヨークに逃げ出したほどです。


 恐らく、その合唱団のメンバーの中にそういう神のイメージがあって、それが歌の力を借りて、マインド・コントロールが行われたのだと推測しています。宗教としての神イメージがない日本人にとって、政治家が救い主だと思っている人も多いのではないかと思います。
 目が痛くなるぐらい、新聞やテレビなどで、その政治家のイメージを無意識に瞼の裏に焼きつけ、良かれ悪しかれその政治家の言動に従うように盲従させるのは、本当の施政とは思えません。


 私が勉強してきた大脳生理学論では、日本人は文化というものを、視覚的イメージとして記憶しやすい国民だという結論が出ています。海外のものを何でも取り入れ、物真似の上手な日本人は融通性が利くようなところがあります。しかし、日本人のそういった性質を利用する偽善者がいます。おとなしいかわいい女の子をマインド・コントロールして、自分の思うままに操るのは真の自由とは言えません。

 私は今夏から、憲法を守るためのピース9の会に友人たちと登録しましたが、それは私を取り巻く男性的な人間社会のしがらみに対抗する(と云っては変ですが)ためにカトリック平和と正義協議会という強い後ろ盾が欲しかったからです。それだけ有形無形の様々なマインド・コントロールがあり、その呪縛から逃れられると信じたからです。

 日本人には生まれ年の干支があり、それで性格判断までできるそうです。それは当たっていると思うこともありますが、私たちは猿が進化したものであっても、精神性のある人間であって、動物とは一線を画するものです。男性が自分の飼い主であるかのように、日本女性は従順に従っていきます。しかし女性のたおやかさは、脆さと両刃の剣であり、優しそうに見える狡猾な男性からのマインド・コントロールに引っかかってきたかわいそうな女性をいくつもみてきました。ある六十歳代の女性は夫婦愛もマインド・コントロールなのよ、と嘯いていますが、打算的な愛もあるかもしれないし、無償の愛である証を確信することはできないのです。

 いつか、日本政府が憲法九条を破棄するように国民に呼びかける国民投票のXデーが来たら、瞼の裏に焼きつけた偶像が、優しい(狡猾な)旦那様のように、自分を救ってくれると、いとも簡単に引っかかる日本人が幾人も出てきそうで末恐ろしい気さえするのです。

(27/Aug/2011 聖アウグスチヌスの祝日に記す)

2011年10月5日水曜日

My Library



読書の秋ですね。

ずっと前から狙っていた、無印良品のスタッキングボックスが、セールでさらに1万円安くなって、売り出されていたので早速、買い求めて、我が家の書斎に設置しました。

家じゅうに散らかっていた書籍をどんどん、詰め込みましたら、半分以上の本が埋まり、かなりすっきりしました。

そして、どうやってブロック毎に分けようかと思いましたが、ふとアイデアが浮かんで、ISBN(日本図書分類コード)別に並べてみましたら、ご覧の通り、きちんと収まりました。

本棚の並べ方はいつも悩みの種ですが、コード別に皆さんもやってみてください。

そのうちだんだん、また崩れてきてもコードがあれば、元に戻せますもの。

そのうち、引き出しの整理法なども、片づけ名人のマリア・エリザベートが皆様にご伝授しますね。

お楽しみに!

2011年9月30日金曜日

「なんて、熱いおじさんなんだ!」


9月の連休のはじめに、女子パウロ会で開催された朝日新聞ロサンゼルス支局長だった伊藤千尋さんという方の「活憲・自然エネルギー、市民力」という講演会に行ってきました。
ニューヨークテロのちょうど二週間前に着任し、全米民のパニックが続く中で取材をし続けたそうです。

その後は沖縄問題などをルポしていましたが最近は、憲法九条や自然エネルギー問題に関する講演で、あちこちで話題になっています。

「あけぼの」(女子パウロ会)に掲載された記事があり、たくさんの専門用語が出てきそうでしたので、手話通訳ではなく、要約筆記というボランティアを2人同行して、聴講させていただきました。 
私の耳には伊藤さんのお話はやや不明瞭でも、語感とか語調とかはちゃんと伝わってきていますので、ノートを見ながら拝聴したわけです。

その講演の感想はひとことで言うと、「なんて熱いおじさんなんだ!」でした。
講演が始まったのが午後2時、1時間半のお話の間に、10分か15分の休憩があるはずでした。
しかし、休憩なしで、ぶっ通しで話し続けその間、誰一人として席を立たなかったのです。
3時半を過ぎた頃、司会のシスターが5分だけ休憩にします、と言って再開しました。
しかしまた、10分だけ市民エネルギーについて話しますと言ったものの、さらに30分も話し続けるほどの熱さでした。
最後には、ご自分が朝日新聞の編集部にいるにも関わらず、原発容認派の社長に対する怒りをぶちまけ、「皆んな、朝日新聞を買うな!」と叫んで、聴衆から拍手喝さいを受けたのです。

今回のおじさんの話は、主に自然エネルギー、特に地熱エネルギーに関するものでした。
今、日本で稼働している地熱エネルギーは僅か0.2%だそうです。
日本列島は、環太平洋火山帯に属しているから、どんどん活用すれば、原発にとって代わるエネルギー源になるはずだ、というのがそのおじさんの論です。

 ドイツは早々と脱原発をしたし、イタリアもスペインも、スイスでは物理学者が首相になったそうです。
これから、日本の政治家はもっと血の通う、かつ自然エネルギー問題に関して、現実的にシュミレーションできる人がなるべきだと思います。
アメリカに黒人大統領が生まれたように、今こそ、世界と歩調を合わせて方向転換するべきだと思います。新しい船に乗りかかれない政治家は、ひっそりと隠遁してほしいぐらいです。

同じに熱くなるのでも、自分のエゴのために熱くなる人は嫌だけど、神様のために熱くなる人は応援してあげたくなるものです。
頑張れ!おじさん!

2011年9月28日水曜日

レイチェル・カーソンの「感性の森」と「ピース9の会」





映画の冒頭のシーンで、レイチェル・カーソンが森の中で、まだ見たことのない鳥の姿を双眼鏡で追っています。鳥の神秘的な鳴き声に耳を澄ませると一瞬、恍惚としたような表情が彼女の顔に浮かびます。私も彼女の聴いている鳥の声を感じたいと憧れを抱くのです。

しかし、私の左耳はなぜか、不自由ながらも敏感なアンテナを持っていて、その研ぎ澄まされた感性がときには詩的な言葉を生み出すことがあります。その耳は時には、人間には聴こえない空気の流れを読み取り、また沈思黙考した時には、地球の鼓動さえも感じ取ることができます。逆に40代を過ぎて、右耳が拓いた時は、聴覚のバランスを取るために、遠くの宇宙のこだまを聴こうとする姿勢も生まれました。

ところで最近、明日にはもう上映時間が終わるという日に、この映画「感性の森(”Sense of Wonder")を観ました。
最初、この映画のチラシが可愛らしい貝殻や草花の写真を見て、私は単なるアーティストの物語かと思っていました。しかし、中身は予想したものとは全く違っていました。1960年代、つまり私たちが生まれた頃ですが、殺虫剤や農薬(DDT)問題を最初に警告した女性ジャーナリストのドキュメンタリーだったのです。

彼女は森林の農薬散布の現状を暴いた「沈黙の春」を書き、それがベスト・セラーになりました。しかし、彼女の主張が不都合な人々によって、「ヒステリックな女性」と呼ばれるようになってしまいました(パンフレットより)。それにも拘わらず、彼女は真実を訴え続け、やがてそれは私たちが環境問題の深刻さに気付くきっかけとなったのです。

この映画で私が感銘を受けたことの一つは、これらの環境問題は今や常識となっていますが、それまで「何だか、体に害がありそうだけど、誰も文句いわないし、まあいいか」と見過ごされてきた事実を敢えて問題視し、様々な困難や中傷にも負けずに毅然と、しかし淡々と自分の主張を貫き通したことです。
私が子どものころに見た、「サザエさん」という長谷川町子さんが描いた漫画に、環境問題について取り上げたものがあったのを覚えています。

主婦たちが集まってホームパーティを開いているのですが、添加物が入っていないからカビが生えてしまったチーズの方が安全だと云って嬉々として食べるというストーリーだったと思います。

今では、お店を選べば、添加物の入っているものを探すのが難しいという有り難い時代になりましたが、人間の感性は、歴史の中で圧政者や科学の行き過ぎた進歩によってごまかされ続けました。その産物が未だにところどころに転がっています。

砂漠に落ちたダイヤモンドを探すのも大変ですが、珊瑚礁が減り続けているという現実に気付き、海を汚さないように、自然界の生物多様性を壊さないようにすることも同じぐらい大切な事です。私たちはどちらを優先するべきでしょうか?

事実を見逃すことはたやすいことです。でもその問題に一番近い場所にいる誰かが、その現実を知ったときに、勇気を持って真実を証しし、行動すること…それには、
「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」というイエス様の言葉が私たちに力を与えてくれます。私たちの預言者は今や必ず、聖霊となって甦り、私たちを助けてくれるのです。

ピーター・ラビットの作者「ミス・ポター」や、奴隷貿易問題を扱った「アメイジング・グレイス」の映画も同じでした。男性であれ女性であれ、戦争で勝つ武勇伝ではなく、「義のために働く」人達の姿が私の心を打ったのです。

それは、明治維新で功労し、華族の称号を擁いた後藤新平と血のつながりのある、安場という家の宿命が私の中に欠片ほど残っていたからかもしれません。この後藤新平の孫である、大伯母の鶴見和子さんも、日本に於いて、水俣問題に取り組んだカーソンでした。

安場保和という人は今では珍しい、清廉潔白の政治家として知られていますが、福岡県令(昔の知事)を務めたことがあります。顎の形と血液型(私が祖父と同じなので恐らく?)が遺伝していることもあり、その血がどうしても騒ぐのかもしれないとも思います。

でも、私はテレビの政治ニュースを見るぐらいならテレビを見ないほどなのです。どうせ茶番劇ですし、見るだけで感性の目が汚れてしまうからです。今では原発問題は私たち個人の力ではどうにもならないし、そんな事に腹を立てるのはみっともないからと、大人しく羊のようにボランティアする人もいます。けれど私はなぜかそういう人、特に男の人をみると却って(笑い過ぎてではなく)脇腹が痛くなるのです。

もう一人、父方の祖父は優秀な弁護士でした。カトリック正義と平和協議会の中にある2つの言葉が、我が家の旗印だったのです。祖父は、部下を招いての宴会でもお酒は飲まなかったと聞きました。肝臓が悪かったのかもしれません。人間には肝臓という臓器が生来、備わっていますが、それは怒りの感情をもたらします。怒ると体に良くないといいますが、「怒るに遅く憐れみ深い神」でさえ、怒りを貯めるとグリコーゲンが燃焼仕切らずに、脂肪肝(フォアグラ)になりそうです。

しかし、その怒りが平和のためのエネルギーに向けられるためにあるとすれば、それは私たちに与えられた神の恵みであるともいえるのです。

一昨年の夏に、たまたま田園調布教会で、松浦補佐司教様の御ミサに与かったことがきっかけで、私の中にかなり長い間、忘れていた一種のバランス感覚が蘇り、脇腹の痛みが癒えました。それは青山の国連大学の前を通った時、国連英検を受けた時、そしてニューヨークの国連本部に行った時と同じでした。

そうこうして自分の足跡を逆に辿っているうちに、私はある記憶に行き着きました。それは私が生後一年目から45年以上、そして今も暮らしている我が家の道路一つ隔てた向かいに、数年前まで防衛庁があったことです。

防衛庁と言えば、私は生協でさえ、一度も入ったことはありません。向かいに見える高い塀の上に金網の張っている監視台があり、妹などは小さい頃は、カーキ色の制服を着ていましたが、単なるおまわりさんだと思っていたそうですが、今思えば、ものものしい雰囲気さえ漂っていたと思います。

一方、私たちの日常生活の場である我が家では、3人の聴覚障害児の賑やかな声が一日中、聞こえていました。またそれだけでなく、私の母にとっては子どもたちの聴覚障害と、それに伴う様々な健康、教育的な問題を乗り越えるだけで精一杯でした。国防の事は全く無関心で、母子共々、奮闘する日々が続いていたのです。その塀の中の懲りない昭和の兵隊さん達が、あの殺伐とした世界と日常的に関わっていたなどとは考える由もありませんでした。

しかし防衛庁が無くなり、東京ミッドタウンという、いくつかの大きな美術館のある、世界でも最もおしゃれで、センスのいい人たちが集まる高層エリアになりました。そして、私の体に長い間、知らず知らずのうちに抑圧され、蓄積された怒りの感情がくすぶりだしたのです。その感情が私の体のある部分に不快な塊のように残っていて時にはそのために動けないこともありました。それを発散するためのカウンセリングも受けましたが、なんとも生ぬるくてやる気さえ起こりません。

防衛庁の建っていた街に自衛隊の名残があったせいかもしれませんが、N.Y.の国連本部でブルーヘルメットの写真を見た時、カーキ色や迷彩色の兵隊さんは好かないけど、こちらは格好よくて清々しいと思いました。日本の国連のインターンシップのボランティアにも応募しましたが、英語力が足りないために採用されませんでした。

そんなこんなで半ば諦めかけていた矢先に、私は「憲法九条を世界の宝に ピース9の会」講師を務めていらっしゃる、松浦司教様に出会ったのです。そのミサ後、私は田園調布教会のピース9の会「地に平和」の富澤さんに言いました。私たちのような若い(!?) 人、アーティストの友人たちなどは、固い憲法の話は敬遠してしまうから、音楽や絵本朗読で平和を訴えた方がいい、と。しかし、その時は新ピース9の会を設立する気持ちは全くありませんでした。

そしてその翌年に、世界各地の戦災で傷ついた子供のための医療施設「ドイツ国際平和村」支援チャリティーコンサートを開く時に、松浦司教様の大阪から応援していただきました。そして今年も引き続き、麹町イグナチオ教会で被爆ピアノを使った、平和と東日本復興「LOVE & PEACE チャリティーコンサート」を開催し、成功いたしました。

このコンサートの準備をしている時に、今後も機会があれば、音楽と芸術による平和祈念コンサートをまた開きたいとい思うようになりました。しかし、私たち女性だけでは心許ないですから、松浦司教様に指導者として、後ろ盾になっていただきたいという気持ちが強まったのです。そして、昨年と今年の出演者などに呼びかけましたら、2名の方々が参加登録に同意してくださいました。

偶然にも全員がマリアの霊名を戴いていますので、会の名前は、“Maria Arts & Music PEACE9”と決まりました。会の登録日はメンバーのTさんの提案で、2011年8月15日の終戦記念日、つまりマリア様の被昇天の祝日を予定しています。
この3人のマリア様が集まって、これからどんな活動ができるか、全く未知数ですが、一歩一歩、神様と対話しながら、柔和に謙遜に「平和のために働く人」になりたいと思います。

2011年9月26日月曜日

《第四章:憲法九条を世界遺産に》(続き)



◆ 日本国憲法は環太平洋的思想
《太田は語っています。天皇制も憲法も常に議論の対象になるのは、そういう本質が似ているからなのかもしれないと。そして憲法九条に関して言えば、もしかすると日本人はまた人を殺すかもしれないという、自分への疑いがそこにある、と》

 そういう意味では、日本国憲法は聖書と同じだと思います。クリスチャンは十字架を称賛しますが、それほど残酷な宗教はないでしょう。しかし、それを乗り越える愛が聖書にはあるのです。

◆ 右翼でも左翼でもない「中道」
《中沢が、太田さんが日本国憲法について最近、考えたり、書いたりしていることを見ると、これは右翼が怒るなと思うところがあるそうです。じゃあそれは左翼の論理かというと、それも違う。たぶんこれが中道なんだろう。中道だから、右にも左にもいいなと言われる。あるいは両方から文句言われる、と》

 
 
宗教が混在している日本に於いて、中道を示すものが無くなると困ります。世界中が認める、神の傑作はむやみに作り変えてはいけないですね。





◆ 僕が芸人でいる理由
《中沢はさらに次のように言っています。芸術と政治が合体したときに生まれた最大の失敗作は、ナチだと。ナチズムの思想は、人間が人間を超えていこうとした。非人間的なものも呑みこんで、人間を前進させるんだぞという考えが、現実の政治とつながっていったとき、とてつもない怪物が生まれた。それ以来、政治の中に芸術や芸術的な思想を結びつけるのは危険だということで、ヨーロッパでは政治と芸術を分離させた、と。
 ところが、日本国憲法は、ナチズムとは逆のことを実行してきたそうです。この憲法自体、現実には存在し得ないことを語ろうとしているわけですから、芸術に近いものだとも言えますが、それを日本は政治の原理にしようとしてきた、と






 ナチズムと日本国憲法が、左右対称というのは面白いと思います。脳の世界は右が天国、左が悪魔と行ったりするけれど、お国が違えばそれも変わるのですね。神は左右上下でなく、御言葉によるイメージの世界が作り上げるのです。

《中沢は、世界遺産という言い方がとても気に入っているそうです。政治と芸術的な思想の結合という、この奇蹟的なシステムを、リサイクルして再活用するために、そのスローガンはとてもすてきだ、と






 日本国憲法は神の理念と言葉が一つになった、美の遺産なのだと思います。
心を伝えるのは難しいです。言葉はいつも空まわりしてしまう。それができたのは、敗戦国という極限状態にあったからかもしれません。ハングリー精神から生まれる美は美しいですね。





◆ 日本に蔓延する感受性の欠如
《太田が、初めて画集で「アッツ島玉砕」を見たとき、衝撃的を受けたそうです。まさに地獄絵図と言っていいぐらい。 あの絵を戦意高揚の絵だとして、藤田を戦犯だと言った人たちの感受性とは、一体何なのだろうと太田は言っています。あの絵からは、戦争はもう嫌だということしか伝わってこない。なのに、いまだに日本の美術界がそれを封印しているのは、彼を戦犯だと言った人たちと同じ感性だということじゃないですか、と》

 キリスト教の歴史と同じ、日本の文部省と同じですね。日本文化「は隠す文化ではあるが、このように戦争の事実を隠すのが公然と行われてきたのです。このことが、日本の芸術や人間教育を閉塞させしまっていますね。

◆ 合作としての表現
《太田によれば、クンデラが(人間の)仕草について、「この世には、個人の数より仕草の数のほうが少ないことは明白である。そこでわれわれは不快な結論に導かれる。つまり、仕草のほうが個人そのものより個性的なのだ」、あるいは「仕草のほうこそ、われわれを利用しているのだ。われわれは仕草の道具であり、操り人形であり、化身である。」と表現していたそうです。(集英社文庫『不滅』菅野昭正訳 第一部「顔」より)。 太田らは、言葉を武器にして表うが強いんじゃないかと。では、どうすれば、仕草が言葉を乗り越えられるのか、と言っています》

 手話は仕草が個人を超えていると思います。言葉がなければ、人間としての感覚がなくなるが、言葉が個人を超えてしまうこともあるのです。仕草が言葉を引っ張るのか、だとしたら、手話は言葉と限りなく引き出していく。私は逆だと思っていました。





《第四章:憲法九条を世界遺産に》より



◆ 言葉の持つ力と危うさ
《中沢は言葉の持つ力を危うさについて、次のように述べています。上手な表現というのは、そういうパターンに揺さぶりをかける力を持っている、と。テロというのは最終的な、しかも極端な表現で、そこたどりつくまで、じつはもっと広くて大きないくつもの選択肢があった。人間はいつも最終的に出てくる表現に気持ちがとらわれてしまい、とくにテロだとか戦争だとかいうと、もうそこだけに関心が集中して、裾野の広さが見えなくなってしまう、と》


 さて、私たち人間は、言葉によって意識が変わり、それによって戦争が起きたりもします。聴こえなかった自分には考えられなかったことが、聴者の世界では起こりうるのだと、聴こえるようになって初めて、実感しています。聴覚や視覚などを通して、外の世界に繋がることで、マインド・コントロールが起こるわけです。 


 その点で聴覚障害者の音の世界は、静寂であり、平和そのものといっていいかもしれません。しかし私たちに、神様から与えられた五感が、争いや分裂を引き起こすために使われるのでしたら、それはかつて聴こえなかった自分にとっては何よりも悲しいことと思います。

 私たちが自由にものを見たり聞いたり、考えたりするためには、言論の自由だけでなく、感性の領域においても、つまりそれは個人の感覚の自由であるわけですが、守られなければいけないと思います。
《芸人の太田は、中沢の発言を受けて、たとえ矛盾があったり、失敗したりしても、たくさんの自分の言葉を使って話してほしいと言っています。その人間が見えなくなるキャッチフレーズより、誰がそれを言っているのかが大事なんだそうです。言葉にはすごく力があると同時に非常に危ういものだということを、よくわかっているから、と》

 私もそうだと思います。断片的な言葉の効果もあると思いますが、本当に必要なことは、身をつくし、魂をつくして伝えるべきです。同じ言葉を繰り返すだけでも効果はないでしょう。くどくなってしまいますし。

 それだけにどこから題材を持って来るか、視野を狭くしないように、要領を得た話ができるようにしないといけないと思います。

 それに、日本語は言いたい事を最後に持ってきますから、じりじりと結論を出そうとしません。それが日本人を忍耐強くしているかもしれませんけど、今の日本の政治のように、原発問題に関しても煮え切らないということが起こります。最初から結論として、「原発を無くす」というただ一つの目標を掲げて付き進めばいいのに、と思います。

◆ 「不戦」と「非戦」の違い
《中沢曰く、日本国憲法は、普通の国の憲法とは違う。とくに九条があることによって、普通になれないそうです。それは国家が自分の中に矛盾した原理を据えているからです。だからそれはある意味で、修道院に似ています。修道院のようなものがあると、人間は、普通ではできないけれど、人間には崇高なことに取り組む可能性もまだあるんだと感じることができる。そういう場所があることは、すごく大事なことです、と


  私たち日本人は日本国憲法のお陰で、他の国に比べれば、皆、修道士、修道女のように神の恩恵を受けながら、聖域に籠らずにも平和な時間を有り余るほど享受しているのかもしれません。 ありがたいことだと思います。

 
◆ 人間の愚かさを知るための世界遺産
《中沢が、なぜ人は、神社に落書きしたくなるのかというと、もともと神社という建物が日本にはなかったからじゃないでしょうかと言っています。日本人は、神様をまつるのに建物を必要としなかった。山とか木とか、その向こうにあって見えないもの、それを神様として考えていて、そこには手をつけなかった。ところが、神社というものがつくられると、神とイエスのような関係になって、ここには何か悪戯をしたくなるわけだ、と》

 もし今の日本政府が憲法九条に手を付けたら、「ソドムゴムラよりももっと重い罪」(聖書より)が日本中を襲うような気がします。
 十戒という厳しい掟を命がけで守り通した四千年の歴史の神様がどんなにお怒りになることかと思います。日本には日本の神様がいると嘯くけれど、今はもう鎖国の時代じゃないのです。洋館に住み、洋服を着て、洋食を食べている日本人がキリスト教を切り離しては生活できない時代なのです。日本のよさを認めながら、西洋の文化とうまく融解させることは、神概念にも同じことがいえると思います。
 汚れを清めるために宗教があるわけですから、汚れ過ぎないように神社やお寺があるのは大切なことです。悪戯したくなるのは、日本の神社や仏閣の神は沈黙しているだけで、厳格だが、憐れみ深い人格を持った神がいないからでしょうか。キリスト教には司祭という形を借りて、それが残っていると思います。

《イスラム教のタリバーンがバーミャン(アフガニスタン、バーミャン渓谷の古代の石窟仏教寺院。世界遺産に指定。2001年3月、偶像崇拝を否定するイスラム教・タリバーンによって、渓谷の二体の大仏が破壊された)の仏像を爆破して、困ったことをしたものだなと思う反面、イスラム教の考え方からすると、仏像というのは、落書きみたいなものですから、ただ落書きを消しただけという見方もできる、と中沢は言っている》
 
 仏像を壊してしまう人は、脳の使い方が左右対称に違うのかもしれないですね。木を見る西洋人とと森を見る日本人の論理が、タリバーンも同様に、仏像を壊したくてたまらなくなるということが起きるのでしょう。人間に眼が二つある限り、目に見えるものは二元論に至り、対立の対象になるのでしょうか。インドヨーガの第三のチャクラの目で世界を見なければならないと思います。

(続く)











《第三章:戦争を発動させないための文化》より



◆  思想表現としての芸
《中沢曰く、たとえば、ピカソのゲルニカは、スペインの内戦を写実的に描くのではなく、ピカソが頭の中で見たものに置き換えたほうが、むしろストレートに訴えかけてくるということがあると。それがピカソの芸だとすると、原稿でもテレビでも、中沢はそのへんを省いてストレートな発言ばかりしているそうです》

 私も、喋る方がずっと楽だということはあるかもしれません。でも、それではいつの間にか立ち消えになってしまいます。ただ、喋り続けて同じ事を喋っている自分に気付いたら、それが自分のことば(アート)になると思うので、文章にしています。
 逆に、ノーベル化学賞を受賞した小柴昌俊さんのように、インスピレーションが頭に浮かんだら、端的にでもメモることも大切ですね。

◆  落語の表現から学ぶもの
《中沢は、『国家の品格』(藤原正彦・新潮新書)を読むと、今の日本人は昔の日本人が持っていた美しい武士道精神を見失いつつあるそうです。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』は、江戸末期のころの幕府の侍たちは、長い鎖国の中でみんな平和ボケしていて、その武士道精神を失ってしまっていたというニュアンスで書かれています。そこから、坂本竜馬や高杉晋作のような、骨のある武士道を持った日本人が下から出てきて明治維新を起こしたそうです》

 私の遠縁に当たる、後藤新平も同じだったのだろうか。氏もやはり明治維新で功労を果たし、華族の称号を得ました。
 江戸時代には安場一平さん、これも何世代か前のグランドファザーですが、剣の名手であの有名な「赤穂浪士」で大石内蔵助の切腹の時に介錯をしたほどであるから、かなりの武士道の達人だったのでしょう。
 私も茶道でお茶を点てる時、一期一会の精神を意識していますが、あまりにも簡素で完璧なものを追求し過ぎると、「切り捨てごめん」に近い境地になるときさえありますし、我ながら恐ろしいと思いますが、イエス様の十字架を信じていますから、殺意(?!)ではなく、「浄化」(purify)になるわけです。

◆ 武士道とお笑いの土壌は同じ
《武士道の話をもう一歩突き詰めると、お笑いと武士道の精神は同じところにあるということにたどり着く、と中沢は言っています。
 武士道では、自分の命に執着しないことが基本条件になっているそうです。戦国時代の武士は、いつも死と隣合わせに生きていた。これは芸術家に近い生き方だ。死と隣合わせにいると、自分の生きている世界を、いつも外から醒めた目で見ているということになる》

 死という問題は、一般的に日本人は避けて通っていきますが、私たちキリスト教徒はミサの中で、イエスキリストの死と復活を繰り返していることから、同じような心情に至ることはあると思います。

《太田が、人間生きてると、あいつ許せないと思うことがいっぱいあるが、そんなことも含めて古典落語は笑っちゃうと言っていました。
中沢がそれを受けて、低いところから人間を見ているから、世の中でぐんと上昇した人が落下していくのを見ても、何か優しいんだと。この人たちをそんなにいじめちゃいけないよねっていう視線がある、と

 許せないと思うことを赦し続けていくキリスト教とよく似ているかもしれません。 高みから私たちの行いを見ている神のような存在が、落語にはあったわけですね。
 可笑しさを意味することもある「もののあはれ」は憐れみ、楽しみ、喜びは栄光(グロリア)、賛美(ホザンナ)と通じるからでしょうか。
 危うさに行かないというのも「誘惑に陥らせず、悪からお救いください」という主の祈りとも通じます。
ならば、主の祈りは落語だったのか?!と思ってしまいました(笑)。

(続く)

2011年9月24日土曜日

《第二章:奇跡の日本国憲法》より



 ◆ 憲法九条は掛け値なく面白い
《中沢新一の話によると、憲法九条は修道院みたいなんだそうです。村はずれの丘の上に建っているというだけで、人の心は堕落しないでいられる。そういうものがあったほうが、人間の世界は間違いに陥らないでいられるんでしょう、というわけです》

 たしかに、教会や乃木坂の女子パウロ修道院の周りには、聖域から漂ってくる清浄感というものはあるけれど、麹町教会のある四ツ谷駅周辺のように、教会を横目に眺めつつ、決して与(くみ)しないところもあるかもしれません。教会でお祈りしないで、買い物をするとたまに何か、とばっちりに出会ったような気がするのです。イエス様のそばにいながら、決してその輪の中に入らないから、却ってつまずいてしまうのかな、と思います。それもその地域の特性かもしれないけれど。

《中沢はさらに修道院では、普通の人たちにはできない、血の滲むような努力をしている人たちがいる。断食をしたり、エゴを乗り越えて、利他心に生きようとしてがんばっている人たちがいる。現実はともあれ、とにかく立派な生き方をしようとしている人たちがいて、理想や夢が地上に自分の居場所を見いだしている場所がある、と言っている。 ふと見上げた丘に、そういうことをしている人たちがいるというだけで、世界の姿は変わるんですよ、と》

 日本の修道院は、まだヨーロッパの修道院のように歴史が長くないから周囲の土地に影響を与えるだけの力はないでしょう。しかし、私たち一般のカトリック信徒には、街の人のように見上げるのは、建物だけではなく、たくさんのシンボルがあります。聖書だけでなく、教会建築や修道院、司祭や修道士などの聖職者、聖人像、教会の奉仕活動、そして特にミサの中に見られる様々な聖変化にその都度、刺激を受け、信仰が育つのだと思います。

◆ 日本にたった一つ遺された拠り所
《中沢によると、日本国憲法というのは、日本人のドリームタイムなんだそうです。ドリームタイムというのは、オーストラリアのアボリジニが、自分たちの根源の場所として確保している場所のこと。そういう場所があることを知って、そこに心を向けることで、世界は正しい方向に向かっていける、というわけです》

 ところで、私はオーストラリアン・ワイルドフラワーもやっていますので、そのドリームタイムという感覚は、自然に還るというか、何となくわかります。でも、カトリックの信仰は、それとは違うと思うのです。もっと自分が天上と繋がり、自分の前途に道が開かれるというイメージがあり、そこに踏み出せるものだという感じがします。

《さらに中沢は述べている。日本国憲法は、ことばでできた日本人のドリームタイムだと。このことばでできたドリームタイムによって、日本人は今まで精神の方向づけを行ってこられたのだそうです》


つまり、基本的にドリームタイムは、全ての人が神に立ち返っていくところなんですね。


《今の日本の非常時に憲法は沈黙するばかりだそうです。いつだって神々は沈黙する。イエス・キリストだって十字架の上で、このまま私を見殺しにするんですか<と神に向かって訴えたけれど、神は沈黙したままでした、と非クリスチャンの中沢は言っています》

 しかし、キリスト教には、この沈黙の後に復活があるのではないですか。大震災後に東北の人が持っている底力とはまた違う、立ち上がろうとする力が、私たちには自らあるのでなく、与えられて生かされるのだ、と思います。

 太田さんが言った、世界遺産という言葉は当たっていると思います。一度、破壊されたら再構築は不可能ですし。大切なものを"守る“力は母性を持つ女性の領域ですから、女性たちがもっと立ち上がらないといけないと思います。

(続く)

2011年9月20日火曜日

「憲法九条を世界遺産に」を読んで―《第一章:宮沢賢治と日本国憲法》より





 最近、「憲法九条を世界遺産に」集英社新書(中沢新一・太田光)を読みました。
日本国憲法が世界中でも最も普遍的な要素を含んでいる平和憲法であり、世界中の憧れの的だということがわかりました。敗戦国日本が、もうこれ以上、戦争は嫌だという状況の中にあった時に作られたものです。本当に有り難いことですし、決して改正してはならないと思います。

 ところで、この本は宗教学者とお笑い芸人の対談ですが、人間の左右脳領域の対談のようで面白かったです。
この本を通して私は、ことばを鵜呑みにしないで、自分の中に駆け巡らせて、熟成したりして、表現していかなければならないということに気付きました。そのため、私たちは出会う人や書物を選ばなければなりません。

 私はキリスト教徒ですが、私たちの神が天皇でなく、天地創造の神であること、また誤魔化すことの多いごった煮のカレーのような仏教の神ではなく、津波の後の泥の中から希望を見出そうとするキリスト教は、今や脳化して系統だった言語を持つようになった私たちにとって救いの光となるはずです。

 私は東日本が大震撼した直後、他の大勢の人達と同じように、途方に暮れましたが、地震の後ほぼ毎日、教会のミサに与かり、気持ちを落ち着かせてきました。ミサの中で度々
私達は、ローマ法王からのメッセージを聴きました。このように日本全体が危機に陥っても、世界中のカトリックと繋がっている、その事を知って安心いたしました。

カトリックはさらに、毎週、主の晩餐という荘厳な儀式(ミサ)を執り行い、一つのパンを分かち合うことで強い絆を感じますから、ちょっと繋がっているという意識ではないのです。ミサに与ると自分の意識が崇高なものにまで高められ、天上にあるはずの神が、ご聖体(ホスチア)を通して自分の中に入り、聖霊となって生きていることを信じると、それがわかります。
(次号に続く)



2011年9月11日日曜日

芸術の秋と憲法九条を守る会



9月に入り、早くも秋の気配が漂ってきました。
「9」という数字は、「アート」という意味だと聞いたことがあります。

「環境保護問題」とか「ボランティア」という意味もあり、まさに今年のキーワードですね。

皆様、芸術の秋を堪能するだけでなく、アートでチャリティ活動をしましょう。


私も以前から、自宅に祖父母の絵と、母の絵が飾っていましたが先週、高校時代に描いた油絵を額に入れ、飾りました。

10年以上前に、母と一緒に描いた水彩色鉛筆画も棚の上に並べました。 同じモチーフで一緒に描いたもので、似ているようでも少し観点が違うので、興味深いです。


そして音楽の方は、先月の終戦記念日(8/15、聖母マリアの被昇天の祝日)に、プロのヴァイオリニストや声楽家、そして手話通訳の友人たちと、憲法九条を守る会、”Maria Arts & Music PEACE9”を結成いたしました。

来年以降の平和祈念コンサート実施に向けて、新たに活動をしていきますので、どうぞよろしくお願いします。


(イラストは水彩色鉛筆画「洋梨・柿・アケビ」森 峰子作)











2011年8月8日月曜日

平和と東日本復興支援「LOVE&PEACE チャリティコンサート」が終わって…



 先日、麹町教会ヨセフホールでの平和と東日本「LOVE&PEACE チャリティコンサート」が無事に終わり、ホッとしています。
今年も皆様のおかげで、昨年のドイツ国際平和村支援と同じ、約300名のお客様が私たちと共に世界平和を祈り、また東日本で大震災に見舞われた方々のために、いくらか支援金をいただくことができました。
今年の呼び物は何と言っても、広島の「被爆ピアノ」です。このピアノを見るため、聴くために、自分の宗派ではないカトリック教会のホールにいらしてくださった方が半数以上いらっしゃいました。それが宣教体修道会である「イエズス会」に貢献できた一つの大きな収穫だったと思います。
昨年に引き続き、飯島晶子さんの朗読と伊東光介さんのピアノ伴奏による、松谷みよ子さんの絵本「ミサ子の被爆ピアノ」(講談社)は、聴く者の心を打ち、中には涙を流す御婦人の姿も見られたとか。
耳の不自由な私が、毎日曜日に手話通訳のある教会を渡り歩いたため、自然と手話通訳のお友達が沢山でき、そのうちの4人が通訳ボランティアを買って出てくださいました。しかし、熊木洋子さんをはじめ日野和子さん、諸岡保江さん、新進の小林真理さん皆さんの、表情豊かな通訳ぶりは、朗読劇、音楽劇とでもいえるほどで、お客様を十分に魅了したようです。
同じく、声楽家、演奏家の方々も、何かの縁があって親しくなった方々ばかりです。手話通訳のいる田園調布教会の聖歌隊の指揮者、山中真佐子さんとその友人の佐藤陽子さん、昨年のドイツ国際を聴きにいらした後に、麻布教会で洗礼を受けた宮田智世さん、亀有教会でのクリスマスコンサートで宮田さんと出演した根岸美江さんと友人の吉比由美子さん。そして皆さんの出演が決まった後に、私がNHK文化センターでボイスとレーニングを受けた平山智香子さんにも出演依頼しました。平山さんは偶然にも、宮田さんの音大時代のクラスメートで、お二人は30年ぶりに再会するという奇跡のドラマもありました。
伊東さんの即興ピアノ演奏「祈り」は、さすがに現代版モーツアルト?ブラームス!とその純な魂に触れ、私の乾いた心も癒されました。
吉比さんによると、ピアノに吸いつくような、自分が弾いているのではなく、弾かされていたような感じがしたそうです。そういうピアノを調律している矢川さんという調律師さんの技術なのか、ピアノに込められた、原爆で亡くなった方々の精霊の力なのか、わかりませんが、もしこのピアノが“洗礼”を受けて聖霊をもたらすとしたら、どんな音楽になり、一体どんな奇跡が起こるのでしょうか?
何はともあれ、今年の3月11日の東日本大震災とそれに伴う、福島原発事故による様々な困難を乗り越えて、コンサートが無事に終了したことが何よりの奇跡と思います。これも聖イグナチオ教会の祝日に、他教会信徒である私たちのために快くホールを貸してくださったイエズス会の神父様をはじめ、多くの方々のお祈りのおかげと信じています。
資金面では、被爆ピアノ資金にかなりの支出を割いたため、赤字に近い状態となりましたが、私はチャリティコンサートを開いて、お客様から支援金を集めたのではなく、お客様とこのような素晴らしい瞬間を共有するために自分で音楽の宴を招いたのだという充実感があります。
聖霊たちが、私たちに手助けをしてくださったおかげで、このような素晴らしいプログラム内容ができたことを感謝しています。
私はこの次は、それを普段、音楽を聴く機会のない耳の不自由な子どもたちのために披露したいと、新たなコンサート構想が浮かんできました。
昨年のドイツ国際平和村支援でも協力していただいたパイオニア㈱の体感振動システム席を使っての、外国語曲でも対応できる手話通訳とイラスト付き(画像は「ピース君、世界を廻るのスペイン編)のコンサートです。
出演者の皆様は普段、お勤めや家庭の仕事等に従事しておりますので、いつ実現するかはわかりませんが、私の瞼にはもう、嬉しそうな子どもたちの笑顔が浮かんできました。


フランシスカン・チャペルセンターと田園調布サロンコンサート無事終了!




フランシスカン・チャペルコンサート、田園調布サロンコンサート共、無事に終了いたしました。
フランシスカンは、外国人も含めて約30名ほどにお客様がいらしていただきました。
宮田智世さんが急病のために、出演キャンセル、急きょプログラムを変更したのです。
しかし、伊東光介さんと吉比由美子さんのピアノ、根岸美江さんのフルート、そして田中秀忠さんの長唄・三味線は、日本という国の国民性を皆様にお伝えするのに十分でした。
月明りに包まれているようなコンサート空間に、私も長い間忘れていた、「かぐや姫」のストーリーを思い出したほどでした。
麹町教会の英語ミサでいつも通訳をされている坂口雅子さんの素晴らしい英語司会のお陰で、外国の方々のために、日本の古典音楽の説明もきちんとなされました。
私といえば、38.9℃の真夏日の最中で、着なれない着物を着て英語スピーチをいたしましたが、すべていい経験になりました。

続く、田園調布のシュタイガー宅でのコンサートは素敵なご邸宅の地下スタジオで開かれました。
田園調布近隣の方々など24名ほどをお招きして、私の手作りのアップルタルトを作って、素敵な音楽を茶菓子と一緒に楽しんでいただきました。
欧米育ちのシュタイガー様だからできることですが、
なんとも優雅なアフタヌーンティでした。
なお、フランシスカンのチャリティ収入は36,476円でした。田園調布サロンコンサートは、38,000円、すべて被爆ピアノ資金の一部として使わせていただきました。
皆様のご協力を心より感謝いたします。

2011年5月19日木曜日

田園調布でサロンコンサート


ピアノとフルート・歌のサロンコンサート

被爆ピアノ資金集めのためのサロンコンサートを、田園調布にある素敵なご邸宅で開きます。

日時:2011年 7月1日(金) 午後2時開演(午後3時半終演予定)
場所:シュタイガー宅(田園調布)

東急東横線 多摩川駅より徒歩

【プログラム】
◆出演者トーク
★根岸美江(フルート)&吉比由美子(ピアノ)

ップラー:ハンガリー田園幻想曲 /中川いづみ:ピース君、世界を廻る など>
★宮田マリア(ソプラノ)&吉比由美子(ピアノ)
イタリアオペラのアリア など
★ 平山智香子(ソプラノ)&吉比由美子(ピアノ)
日本の歌など

自由献金制(茶菓子付き)

定員制20名まで

参加希望者は、 moreen@xc4.so-net.ne.jp(森)までご連絡ください。
追って、詳細をお送りいたします。



Japanese & Western Traditional & Modern Music Charity Concert


また麹町カトリック教会の被爆ピアノコンサート(7/31)に先だって、6/24(金)に、六本木フランシスカン・チャペルセンターで、邦楽と西洋音楽のコラボレーションコンサートを開きます。
英語による司会となりますが、日本の皆様もいらしてください。

JAPANESE & WESTERN
TRADITIONAL & MODERN MUSIC 
CHARITY CONCERT
Piano & Nagauta Shamisen, Flute, Songs    


◆ Date: 24th June, Fri, 2011
◆ Time: 19:00 to 21:00
◆ Place: Franciscan Chapel Center
4-2-37 Roppongi, Minato-ku, Tokyo 106-0032 JAPAN
Phone: (03)3401-2141 / Fax: (03)3401-2142
http://www.stfrancistokyo.com/

<Free entrance and Free offering>

【Our concert Purpose】
To support “Hibaku ―atomic bombed in Hiroshima during World WarⅡ”piano concert that will held at St. Joseph Hall in St. Ignatius church, Yotsuya, Tokyo.

≪Application and Inquiry≫
E-mail: moreen@xc4.so-net.ne.jp or FAX: 03-3401-8750 (Mori)

【Program】
●Improvised music arrangement from “Amazing Grace” by piano
●“Ebben,n'andro lantana “ from “La Wally”, Alfredo Catalani” by soprano
●“Hungarian Pastoral Fantasy op.26” , Albert Franz Doppler by flute & piano
● Japanese traditional music, by Nagauta Shamisen
● Improvised music arrangement from Japanese traditional music by Nagauta Shamisen & piano, etc.

【Profile】
Kosuke Ito [piano]: Graduate from Tokyo University of the Arts, composition department. During university student, he mastered study of the improvised music in Paris, France. He won at Accord publication prize contest and his work was elected as a commission. Lately, he is enlarging his place of his activity in commercial / drama / the soundtrack. Now, he works at a laboratory of medical corporation Inagi-dai Hospital (musical therapy), part-time teacher of Musashino Academia Musicae attached senior high school music department. ( http://www.kousuke-ito.com/)

Maria Miyata [soprano] : Graduate from Musashino Academia Musicae, vocal music department. She mastered in Sienese, Italia and Graz, Austria, and played on the opera and operetta stage as a contracted singer of State of Hof city opera house in Bayern, German for ten years. Now she is singing in Japan.

Mie Negishi [flute] : Graduate from Ueno Gakuen, instrumental music department and mastered at Toho Gakuen school of Music. She studied under Akiko Ono and Ryu Noguchi. She played at Yomiuri New Face concert and for the royalty in Toka-Gakudo hall in the Imperial Palace. She played with the 1st “Hibaku” piano audition in Kure, Hiroshima.

Yumiko Kibi[piano] : Grpaduate from Ueno Gakuen, instrumental music department. She studied under Haruyo Kubo and Mr. B. Frith in Kuhmo Music Festival in Finland. She got prize for encouragement in Duo section at the 20th PTNA piano competition and Sony prize.

Hidetada Tanaka (Nagauta Shamisen) :Graduate from Tokyo University of the Arts, Japanese traditional department Nagauta Shamisen class. He does performance in Marunouchi-building, art galleries, improvised music with piano, collaboration with animation and Shamisen from student time.
Otherwise, he works as a graphic designer and makes fryers and pamphlets of various concerts.

Mineko Mori (concert planner, essayist):Graduate from Japan Women's University home economics department, children studies and mastered graduate class. She got Avon woman scholarship. She researched about “Right and left brain -from function and culture of hearing” and published an essay “Maria Elizabeth’s Music” from PHP publishing Co., Ltd. She sponsored a concert supporting FREIDENS-DORF International last year and made successes.

被爆ピアノコンサート開催決定!







平和と東日本復興支援
LOVE&PEACE チャリティーコンサート 

ミサコの被爆ピアノとは・・・
昭和 20年 8月 6日広島で爆心地から1.8キロ以内で被爆したにも関わらず、奇跡的に生き残ったヤマハのアップライトピアノです。調律師矢川光則さんによってよみがえり、全国でコンサートを続けています。今日も、音楽&朗読と共に、平和と復興を祈ります。

(皆様からの献金を震災復興への寄付及び被爆ピアノ維持のために使わせていただきます)

2011年7月31日(日)
15:30開演
(15:00開場)
入場無料(自由献金)
場所 :
カトリック麹町教会ヨセフ・ホール
最寄り駅JR四谷駅麹町口・東京メトロ四谷駅赤坂口 下車 1分
東京都千代田区麹町6-5-1

TEL& FAX03-3263-4584
(未就学児はお断りいたします)

◇主催:「マリア・エリザベートの音楽の会」
◇後援:カトリック東京大司教区/カトリック中央協議会・広報/カリタス・ジャパン
◇協賛:カトリック麹町教会
◇協力:女子パウロ会/ピース 9の会「地に平和」


【プログラム】
朗読:「ミサコの被爆ピアノ」(松谷みよ子作/講談社刊)
ピアノ即興演奏「祈り」
専修大学グリークラブによる男声ア・カペラ合唱
ソプラノ・ソロ アリア「それでは遠くへ行ってしまいましょう」 A・カタラーニ作曲オペラ「ヴァリー」より
二重唱 G・フォーレ作曲「アヴェ・ヴェルム・コルプス」他

【出演】
飯島晶子(朗読)/専修大学グリークラブ(男声合唱)/平山智香子(ソプラノ)/宮田マリア(ソプラノ)/佐藤陽子(ソプラノ)/山中真佐子(ソプラノ)/根岸美江(フルート)/伊東光介(ピアノ)/吉比由美子(ピアノ)

2011年3月23日水曜日

コンサート中止・延期のお知らせ

「マリア・エリザベートのお話と歌のコンサート」の中止・延期のお知らせ

3月29日(火)に予定しておりました、中目黒GTプラザでのでの「マリア・エリザベートのお話と歌のコンサート」は、この度の東北関東大震災の影響による交通機関の運休、計画停電、また出演者やお客様の心理的負担を考え、中止・延期させていただくことになりました。

私は今回のお話でも、私の論文のベースとなった先生が書かれた、脳と地震の関係についてもお話しようと思っていましたが、切羽つまった状況では、コンサート準備ももままなりません。

今回のコンサートを楽しみにしていました、皆様に大変、申し訳なく思っていますが、次回までにさらに精進いたし、皆様に納得のいく内容のプログラムをお届けできるようにいたしますので、どうぞよろしくお願いします。










2011年3月1日火曜日

レクチャーコンサートのお知らせ



マリア・エリザベートのお話と歌のコンサート
―聴覚障害を乗り越えて―   
《プログラム》
◆ レクチャー 「音楽療法によって、聴覚がどのように拓かれていったか」  … 森 峰子
◆トマティス聴覚カウンセラーのお話 「耳と声について」                       … 森田 理恵
◆ コンサート “Ave Maria”(Gounod),”Der Lindenbaum”(Shubert)など … 森 峰子(ソプラノ)・吉田 純(ピアノ)
                      
          「マリア・エリザベートの音楽―拓かれた耳の贈り物」(PHPパブリッシング)より
♪ 日時:2011年3月29日(火)14時開演(13時半開場)
♪ 会場:中目黒GTプラザ ホール (東横線 地下鉄日比谷線 中目黒駅出て右すぐ 地下1階)
♪ チケット:2,000円(全席自由席)(限定100席)


<チケット予約・お問い合わせ>
森 峰子: Fax:03-3401-8750  e-mail
moreen@xc4.so-net.ne.jp
森田 理恵 トマティスリスニングセンター東京: Tel:03-6240-2033 e-mail: morita@ear-voice.com

協力:トマティスリスニングセンター東京 http://www.ear-voice.com/
    PHPパブリッシング(株) http://php-p.com/

※ 中目黒GTプラザホールには専用の駐車場はありません。
中目黒GT地下にある有料駐車場のご利用となります。


2011年1月3日月曜日

A Happy New Year!

あけましておめでとうございます。
今年も”Maria Elizabeth's Teatime in Japan"をどうぞよろしくお願いします。

エッセイのためのインスピレーションは時々、浮かぶのですが、それをどう物語づけるか最近は少し、頭の巡りが悪いようです。

それを克服するための健康法を実践しつつ、飛躍の年にしていけたらと思います。
さて、私が生まれた朝には、三月の初め、既に春の兆しが訪れ始めていましたが、大きなボタン雪が降っていたそうです。
幼稚園のころから、お姫様のお話にすっかり感情移入する子どもだったとか。
自分は、髪は黒くて肌は白く、顔はふっくら丸顔で、ディズニーのプリンセスシリーズの中では白雪姫に似ているかもしれないと、細長い顔のきれいなお友達や、従妹達の中で、肯定的なイメージを持つことで、バランスを取っていました。

ところで白雪姫には、七人の小人がいましたね。
それぞれ個性の違う小人達、それは白雪姫の持っている「七つの宝」と私は信じています。
五感を活かすことつまり、音楽だけでなく、絵画などで生活を豊かにし、信仰心と聡明な知性を保ち続ける、それが私の理想です。

今年も3月29日(火)には、その一端として、「マリア・エリザベートのお話と歌のコンサート」と題したレクチャーコンサートを開きます。
詳細は、追ってお知らせいたします。

それでは、皆様にとっても良いお年になりますように!