2014年11月23日日曜日

 
聴覚障害児と共に歩む
~内なる魂の声を求めて~
森美保子遺稿集
 
編集:森峰子
 
 
三人の聴覚障害児を育て上げた母の愛の記録
イエスの臨在の内に溢れ出る神の叡智と
聴覚障害児教育の真髄に迫る
 
本文より 「私は子供達のことではよく絶望的になります。それでも私には希望があります。
それは神様との関わりを信じるからです。私はこんな絶望の中でも希望があることは
素晴らしいことだと思います。私はその素晴らしいことの中で生きています。
 
東京図書出版㈱
定価 1400円(税別)
 
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e-mail:moreen@xc4.so-net.ne.jp または、

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2014年9月13日土曜日

音楽絵本「ピースくん、せかいをまわる」チャリティコンサート

音楽絵本「ピースくん、せかいをまわる」
チャリティコンサート
~絵本と音楽で平和のメッセージを~

日時:20141019日(日)1130開演

会場:カトリック麻布教会聖堂
      東京都港区西麻布3-21-6  電話:(03)3408-1500

      出演者:小野寺絵留奈(フルート)、森有子(オルガン)、早稲田桜子(バイオリン)

【プログラム】
音楽絵本「ピース君、世界をまわる」(絵:森峰子、作曲:中川いづみ)
無伴奏パルティータ第2番ニ短調BWV1004からシャコンヌ(作曲:J.H.バッハ)
アーメンハレルヤ(作詞作曲:末吉良次)
 
※自由献金制(カリタス・ジャパンを通して平和活動に充てさせていただきますので、皆様のご協力をお願いいたします)
主催:カトリック正義と平和協議会 ピース9 Maria Arts & Music PEACE9

早稲田桜子(わせだ さくらこ):東京芸術大学卒業。4歳よりヴァイオリンを始め、12歳より国内外で様々な演奏活動を行う。大学在学中より度々渡仏しフランス音楽を学び、卒業後はジャンルを超えた音楽を求め米国バークリー音楽院に留学。2002年から2年半パリに暮らし、生涯の師となるイヴリー・ギトリス氏に出会い、改めてクラシック音楽の魅力を実感する。音楽活動を続けるなか自らの体験を通して、身体、心理面へも興味を持ち、鍼灸師、あん摩マッサージ指圧師の国家資格を取得。2006年より(財)地域創造・公共ホール音楽活性化事業登録アーティストとして全国各地でレクチャー、コンサートを行うほか、アーティストのコンサート、アルバム参加など様々な分野で活躍。昭和音楽大学講師。 

小野寺絵留奈(おのでら えるな):日本大学芸術学部音楽学科弦管打楽コース卒業。卒業演奏会出演。フルート協会主催第27回フルートデビューリサイタル出演。ライブやレコーディング等の演奏活動、後進の指導を行っていたが、現在は2児の育児に邁進中。これまでにフルートを岩花秀文、渡辺圭一、石原利矩、石塚もと子、F.レスグルグの各氏に師事。 

森有子(もり ゆうこ):麻布教会オルガニスト。 

森峰子(もり みねこ)3歳時にクロマイ服用のために難聴となる。音楽好きの母親の影響で幼少時から歌やフルートなどの音楽に親しむ。短大英文専攻を経て、日本女子大学家政学部児童学科卒。エイボン女性スカラシップ受賞。卒論文テーマは「聴覚障害児の抱える問題と音楽ワークショップのあり方」。銀行、出版社などに勤めた後、日本女子大学研究生として研究論文「拓かれた聴覚の模索―『右脳と左脳―その機能と文化の異質性』からの考察」をまとめた。 2008年、エッセイ「マリア・エリザベートの音楽―拓かれた耳の贈り物」(PHPパブリッシング)を出版し、好評を得る。2010年から毎年、絵本朗読と音楽のコンサートを企画主催している。臨床美術士、京都造形芸術大学にて学芸員資格取得。

 



 



 

2014年8月7日木曜日

神津島ジュリア祭巡礼―二つの朝鮮

 昨年、初めて神津島を訪ねたときは何も知らなかった私でした。今年はおたあジュリアの歴史小説を読んだり、学芸員資格課程でキリシタン資料についてみっちり勉強したりした後でしたからまた、新たな思いを持って参加いたしました。

ニ度目の巡礼を終えての帰り、桟橋で並んでいたときです。これから大型客船に乗ろうとしたとき、一人の女性が走り寄ってきました。往きの船の三等船室で向かいに座っていました。途中、船酔いしていたようでしたが、黒ずくめの服を着ていて声を掛けづらかったのです。でも、誰も彼女に気がつかなかったので少し、彼女のためにお祈りしました。島では泊まった民宿が同じでしたが、食事の時もほとんど黙って喋らなかったので、いるのかいないのかわかりませんでした。

翌朝、私は早起きしたので歩いて海岸まで散歩しました。帰り道にくだんの女性が向うから誰もいない坂道をひとりで降りてきました。その時はもう、朝食まで時間がなかったので彼女にそのことを告げて、一緒に宿に戻ることにしました。途中、少しだけ歩きながらお喋りしましたが聞けば、カトリック信徒ではないが、このジュリア祭のために神奈川の横須賀から来ているとのことでした。私は横須賀といえば、「月・月・火・水・木・金・金」の海軍で、海軍カレーは美味しいですね、とか私の通っていたカト校には韓国籍の人が多かったこと、関東大震災での鶴見警察署長の話など、たわいもない話をしました。その時、私は険しかった彼女の表情が心なしかふっと和んだような気がしました。でもそれは朝の爽やかな空気のせいだったかもしれません。

その後は御ミサがあったり、神津太鼓のイベントが続いたりで、彼女と交流することはありませんでした。乗船間際の別れの際に、彼女が人混みをかき分けてわざわざ挨拶に来て、私はその時に、彼女の名札を見て、これは何と読むのですか?と尋ねました。日本人には珍しい名字でしたが、韓国人にはない名前でした。すると彼女は堰を切ったように、自分の身の内を話し出したのです。出航までのほんの数分間でしたが、私には出発した時の時間が全て、凝縮されたかのような濃い時間でした。

自分は実は北朝鮮人であること、母親は韓国人だが、南北に分かれて離れ離れになってしまったことなど、朝鮮は、本当は一つなのに…。ただそれだけでしたが、私には数年前、自分が北朝鮮のデポドン事件のことやアメリカの創価学会のリーダーが反核運動に関わっていたこと、拉致事件のことなど、つまりマスコミのニュースだけで北朝鮮を目の敵にしていたことを心から反省していました。こういった記事の裏で、家族の絆を引き裂かれて涙している人がいること、その魂の叫びを聴いて歴史の裂け目が見たような気がしました。

ジュリアも、朝鮮の役で父親を殺されて孤児になり、カトリック大名小西行長に引き取られて、敵国である日本で暮らさなければなりませんでした。恵まれた生活の中でも、祖国への思いを断ち切れなかったジュリアの魂が彼女の中にもあったのでしょう。

今回のぬるま湯のような巡礼の中で、火箸のように焼けただれた神のメッセージを聴いたのです。「敵のために祈りなさい」。真の平和の道は、柔和な神の仔羊であるイエス様に従う事、それが最善の方法だと気づきました。


 

2014年4月20日日曜日

流氷と祈りのトレーニング

  30代の頃、それより10年前にルルド巡礼で御一緒した神父様を訪ねに北海道まで行ったことがあります。ちょうど春先で流氷のシーズンが始まるころで、神父様と亡くなった母と3人で砕氷船に乗りました。眼前の海一面に広がっている厚い氷の板をガツン、ガツンと割りながら突き進んでいく音を聴きながら、私は鎧のような心の耳が崩れていき始めるのを感じていました。もともと右の耳は3歳時に薬の副作用でほとんど聴こえなくなっていたのですが、最果ての地のキーンとした空気に触れて却ってひびが入って動き始めました。そこからわずかな隙間風が入り、かすかな音が聴こえてくるようでした。それ以来、私の聴覚的な神との対話を求めての心の旅が始まりました。

 さて、その神父様はそれより少し前に、中央協議会にいらっしゃった頃に麻布教会でミサを奉げられたことがあります。小林敬三神父様がいらっしゃった時で同じ名字の小林薫神父様とおっしゃいました。私は当時、麻布は年に数回だけ、母に連れられて行ったことがありますが、私も知らない教会で懐かしい神父様に偶然、お会いしてその時、初めて麻布教会に親しみを持ちました。

 さて春になると、寒さで委縮した身体が一気に暖まって緩み、何もしなくても春はひとりでにやってきます。でももし、四旬節という心の準備がなかったら、ただ浮かれてしまうか何となく憂鬱になるだけでしょう。しかし、「祈り」によって私達は心の真ん中から春の準備を始めることができるのだと思います。青函トンネルが本州と北海道の双方向から掘り進んで開通したように私達の心も、神様との真の出会いに向かうために自分の内にいらっしゃるイエス様といつも出会っていなければなりません。そのために「祈り」続けることが必要なのでしょう。古い自分を脱ぎ捨てて新しい自分に出会うために、「御受難劇」という試練がありますが、怖いことなんかないよ、とイエス様が一緒に導いてくださるのは本当にありがたいことだと思うのです。

 私の凍りつくような厚い、厚い氷の壁さえも「祈り」の力で真ん中から溶け始めたのです。そしてイエス様にいただいた秘跡のお恵みを永遠の命につなげていくためにも、「いつも、いつも」祈らなければならないと思います。「祈り」はトレーニングなんだよ、と稲川神父様はおっしゃいました。私の祈りは手話が伴うこともありますが、オリンピックのトレーニングにもまけない「祈り」のトレーニングを頑張りたいと思っています。

2014年4月4日金曜日

初めもなく終わりもない永遠のいのち

 今からちょうど一年前の灰の水曜日の夕方にミサに出て、そのまま聖霊に導かれるように聖書クラスに参加しています。最初の頃に稲川圭三神父様が、「初めもなく終わりもなく永遠のいのちを持っておられる神」とおっしゃいましたが、私は聖書には、
「わたしはアルファ(α)であり、オメガ(Ω)である。最初であり、最後である。(わたしは、乾く者には、いのちの水の泉から、値なしに飲ませる。)」(黙示録216節)」と書かれているではないですか?と神父様に質問いたしました。 それに対して神父様は、聖アウグスチヌスの言葉を引き合いに出してこう答えられました。
「初めもなく終わりもないというのはセコンド(時間・分、秒より前の)の時間なのですよ」と。それで私はわかったような、わからないようなという感じで毎回、神父様のお話を聞いていました。
ところがその頃たまたま、日比谷公園内にある日比谷図書文化館で「終わりから始まるものがたり. ―25の問いと100冊の本」が開かれていました。その展覧会の趣旨は「すべてのものごとには「終わり」があります。人の一生も、自然も、文明も、そしてかつては永遠に存在すると考えられていた宇宙でさえも、やがて終焉を迎えます。「終わり」は世界の必然であり、すべてのものごとに潜んでいます」というものでした。今から何十年後、自分はどうなっているか、あるいは何百年後に地球はどうなっているかといった質問に答える映像ゲームがありましたが、後になって神父様のお話はこれとは違った内面的な問題なのだと気付きました。
 もう一つ気付いたのは、稲川圭三神父様は手話ができることもあり多分、ご自分の身体を丸ごと投げ出してお話されているらしいという事でした。そこで私が思い出したのは大学時代に保健体育論か何かで読んだメルロ・ポンティの身体動論でした。それは、一つの対象認識に<精神の中のものであるか<対象の中のものであるか>いう二極対立を超え、私の身体のリアリティは<どちらともいえない>というものです(Wikipediaより)。それである日の聖書勉強会が終わった後、私はその日の午後中ずっと、「初めもなく終わりもない永遠のいのち」とつぶやきながら、歩いたり家事をしたりしていました。そうしましたら段々、その言葉が私自身を変容させてしまったのです。
 つまるところ、「初めもなく終わりもないいのち」とは、私達が母の胎内で過ごした時間かもしれません。いやそれ以前のDNAの記憶かもしれません。こうして、「マリアが子を宿しうる処女性」、「おとめである母」(教皇パウロ6世使徒的勧告『マリアーリス・クルトゥス』)という言葉の意味を初めて理解しえたのです。
また、私は5年ほど前にペンシルバニア州フィラデルフィアにあるフランクリン・ベンジャミン博物館で心臓外科手術のハンズオン展示を見たことがありますが、その時に見た心臓の生々しい映像が印象に残っています。心臓は地球のマグマを思わせる程、赤々と鼓動しながら血液を押し出し、身体の隅々まで巡らせるほど力強いものです。神様の愛はそれほどまでに激しいのですから、せっかくいただいたいのちを無駄にしないように次世代に受け継いでいかないといけません。それは遺伝子レベルの問題ではなく、神の愛のなせるわざです。そしてそれには祈りが伴わなければ、永遠性が伴いません。そういった意味での永遠のいのちともとらえることもできます。
さらに私は、永遠のいのちの場所とはどこかしら?心臓かしら?と疑問を持ちました。聖書にはいくらでも追及するテーマがあるのかもしれません。有名な言葉に、「魂を尽くし、心を尽くして汝の神を愛せよ」とありますが、HeartSpiritsも、mindも心なら、手話で心と表わす時にどこかしら?と手が胸の上をあちこち迷います。愛も聖霊も命も「心」なら、永遠のいのちはどこなのでしょう?
それも、お台場にある日本未来科学館での、脳科学・霊長類学・認知科学などの視点から「生物としての人間」の性質を見る展示で、一つのインスピレーションが与えられました。それは人間の「共感」「同調」「模倣」という心理行為を、チンパンジーと赤ちゃんとで比較したものです。つまり、チンパンジーは手とモノを同時に見るのですが、人間の赤ちゃんは、心を見るのだそうです(松沢哲郎「人間のこと」より)。私達が手を使って報酬を得ようとするのは、チンパンジーと同じなのですね。無条件の愛を知っている人間の赤ちゃんは、それ以前に神の心を与えられているのです。このことは私にとって大きな発見でした。私達は「心」を教育する事によって得るのではなく、それは既にあったのにもかかわらず、私達はそれを忘れてしまっていたのです。そしてその心は心臓部分にではなく、ちょうど天使の羽の付け根部分に知覚センサーが反応したということです。ちょうどお祈りする両手の裏側でした。神様がお創りになった人間の身体の神秘が、このように現れていることに感動しました。
  参考URL:「終わりから始まるものがたり. ―25の問いと100冊の本」http://hibiyal.jp/hibiya/exhibition2013/