2013年5月10日金曜日

「聖書」と「浦島太郎」―脳の中で反転する神の世界

 

「闇に住む民は大いなる光を見た」(新約聖書ルカによる福音書 第2章)
聖誕劇の冒頭シーンです。

これを手話で表現する時に右利きの人ならば、「光」という言葉は、頭の右上から光が射してくる様子を表現します。しかしそれは、音声を伴った場合の視覚的な光景です。

次に静かに目を閉じて、心の中でこの風景を思い浮かべてみますと今度は、画像が反転して、意識の闇の中で左上からほのかに一筋の光が見え、天使の大群がその中を行ったり来たり、神々しい神のメッセージを奏でるのです。たとえ、音楽がわずかしか聞こえなくても私の脳の中では、豊かな音の世界が再現されるのです。

ところで私たちは美術館に行った時に、聖書をモチーフにして描かれた名画をたくさん観る事ができます。そして、キリスト教の神のイメージは元来、右脳型であり、ヨーロッパから伝わった教会建築や芸術作品そして宗教音楽にそれが最も顕著に表れていることはよく知られています。

西洋の神概念は、暗黒の闇と闘い続けた民にもたらされた光であり、音楽で言えばホワイトノイズのようなものです。東洋医学の陰陽説にも、光に中に闇があり、闇の中に光があるという図があります。神様のお恵みは、日常性を離れた非日常の中での、叡智と悟り、インスピレーションそして回心などの言葉によって表れてきます。これは、脳分析でいうと右脳の大脳新皮質領域にあたるそうです。つまり、この領域はせっせと働くマルタではなく、イエス様の御言葉に耳を傾け、あれこれ思い巡らすマリア様の脳なのです。

しかし、左脳型で言語処理をしてしまう傾向のある日本人にとっては、働きバチの脳は必然的なものであり、ゆとりがないと非難されながらも、どうしても余裕をもって休暇を過ごせないし、文部科学省がわざわざ定めた「ゆとり教育」も定着しませんでした。それは日本語を使うが故に、日本人の耳はどうしても何か言葉や「文化」=文字に化けたものに膠着してしまうためで、文化にしがみつくことで、神にすがっている気になるからでしょうか。

そんな日本人の描く絵には、西欧人のそれとは違って、光の中に闇が貫くような描写が多いような気がします。墨汁一色で描くだけならいいですが、彩色した優しい平和そのものの絵の中に突然、黒い鋭い描写を書き込む表現が見られるのです。文字の一種なのかわかりませんが、脳の中で画像と言葉がどうしても同じ空間に位置せずに分裂してしまうのです。

ところでずっと以前に、六十歳の時に心臓発作で亡くなられたカルメル会の小島尚徳神父様がある時、待降節の御ミサのお説教の時に

「クリスマスはメルヘンです」

と、仰った事があります。聖書にはメルヘンとしてのたとえ話がたくさんありますが、それは光の文字で書かれた非現実的なお話です。でもそれは、私たちの脳がバランスよく働くためにはとても大切な要素なのです。  

さて話は変わりますが私は数年前、ある英会話教室に通っていましたが普段、使っていない言語を話すと脳転換になり、また楽しいイベント続きで英語のオールラウンドプレーヤーになれそうな気がしました。しかし数年して、その学校は経営難で閉鎖してしまったのです。そしてその時に私の頭にどういうわけか、「浦島太郎」という日本のメルヘンが頭に浮かんだのです。

子供の頃に読んだ童話がどうして?と思いましたが、その理由はつまり、その時に英会話学校で学んでいた老若男女の日本人全員が知っているメルヘンが「浦島太郎」だったからかもしれません。聖書ではなく、私たちの潜在意識の中に、乙姫様と遊び戯れて、気が付いたら年をとってしまった浦島太郎が宿っているから、それが現実として起こったのです。

その英会話学校のマネージャーだった女性がその後、アメリカの大統領や野球の一流プレーヤーも受けたという潜在意識トレーニングであるNLPのトレーナーの資格を取得して、私たちに講習してくれました。そして彼女曰く、「現実に起こっていることは、自分の脳内世界だ」ということでした。

どんな優れた童話にも偉人伝にも、神のメッセージは込められているでしょう。でも、私たちの心の奥深いところに、聖誕劇から主のご復活までの救いのドラマを、「天地創造万物である父なる神」と、「イエス・キリストの霊を通して語られる御言葉」と「それを名画として、自分の中に再現する私たちの小さな神」を通して刻み付けておかなければ、私たちはたやすく偶像に惑わされてしまいかねません。