2014年4月20日日曜日

流氷と祈りのトレーニング

  30代の頃、それより10年前にルルド巡礼で御一緒した神父様を訪ねに北海道まで行ったことがあります。ちょうど春先で流氷のシーズンが始まるころで、神父様と亡くなった母と3人で砕氷船に乗りました。眼前の海一面に広がっている厚い氷の板をガツン、ガツンと割りながら突き進んでいく音を聴きながら、私は鎧のような心の耳が崩れていき始めるのを感じていました。もともと右の耳は3歳時に薬の副作用でほとんど聴こえなくなっていたのですが、最果ての地のキーンとした空気に触れて却ってひびが入って動き始めました。そこからわずかな隙間風が入り、かすかな音が聴こえてくるようでした。それ以来、私の聴覚的な神との対話を求めての心の旅が始まりました。

 さて、その神父様はそれより少し前に、中央協議会にいらっしゃった頃に麻布教会でミサを奉げられたことがあります。小林敬三神父様がいらっしゃった時で同じ名字の小林薫神父様とおっしゃいました。私は当時、麻布は年に数回だけ、母に連れられて行ったことがありますが、私も知らない教会で懐かしい神父様に偶然、お会いしてその時、初めて麻布教会に親しみを持ちました。

 さて春になると、寒さで委縮した身体が一気に暖まって緩み、何もしなくても春はひとりでにやってきます。でももし、四旬節という心の準備がなかったら、ただ浮かれてしまうか何となく憂鬱になるだけでしょう。しかし、「祈り」によって私達は心の真ん中から春の準備を始めることができるのだと思います。青函トンネルが本州と北海道の双方向から掘り進んで開通したように私達の心も、神様との真の出会いに向かうために自分の内にいらっしゃるイエス様といつも出会っていなければなりません。そのために「祈り」続けることが必要なのでしょう。古い自分を脱ぎ捨てて新しい自分に出会うために、「御受難劇」という試練がありますが、怖いことなんかないよ、とイエス様が一緒に導いてくださるのは本当にありがたいことだと思うのです。

 私の凍りつくような厚い、厚い氷の壁さえも「祈り」の力で真ん中から溶け始めたのです。そしてイエス様にいただいた秘跡のお恵みを永遠の命につなげていくためにも、「いつも、いつも」祈らなければならないと思います。「祈り」はトレーニングなんだよ、と稲川神父様はおっしゃいました。私の祈りは手話が伴うこともありますが、オリンピックのトレーニングにもまけない「祈り」のトレーニングを頑張りたいと思っています。

2014年4月4日金曜日

初めもなく終わりもない永遠のいのち

 今からちょうど一年前の灰の水曜日の夕方にミサに出て、そのまま聖霊に導かれるように聖書クラスに参加しています。最初の頃に稲川圭三神父様が、「初めもなく終わりもなく永遠のいのちを持っておられる神」とおっしゃいましたが、私は聖書には、
「わたしはアルファ(α)であり、オメガ(Ω)である。最初であり、最後である。(わたしは、乾く者には、いのちの水の泉から、値なしに飲ませる。)」(黙示録216節)」と書かれているではないですか?と神父様に質問いたしました。 それに対して神父様は、聖アウグスチヌスの言葉を引き合いに出してこう答えられました。
「初めもなく終わりもないというのはセコンド(時間・分、秒より前の)の時間なのですよ」と。それで私はわかったような、わからないようなという感じで毎回、神父様のお話を聞いていました。
ところがその頃たまたま、日比谷公園内にある日比谷図書文化館で「終わりから始まるものがたり. ―25の問いと100冊の本」が開かれていました。その展覧会の趣旨は「すべてのものごとには「終わり」があります。人の一生も、自然も、文明も、そしてかつては永遠に存在すると考えられていた宇宙でさえも、やがて終焉を迎えます。「終わり」は世界の必然であり、すべてのものごとに潜んでいます」というものでした。今から何十年後、自分はどうなっているか、あるいは何百年後に地球はどうなっているかといった質問に答える映像ゲームがありましたが、後になって神父様のお話はこれとは違った内面的な問題なのだと気付きました。
 もう一つ気付いたのは、稲川圭三神父様は手話ができることもあり多分、ご自分の身体を丸ごと投げ出してお話されているらしいという事でした。そこで私が思い出したのは大学時代に保健体育論か何かで読んだメルロ・ポンティの身体動論でした。それは、一つの対象認識に<精神の中のものであるか<対象の中のものであるか>いう二極対立を超え、私の身体のリアリティは<どちらともいえない>というものです(Wikipediaより)。それである日の聖書勉強会が終わった後、私はその日の午後中ずっと、「初めもなく終わりもない永遠のいのち」とつぶやきながら、歩いたり家事をしたりしていました。そうしましたら段々、その言葉が私自身を変容させてしまったのです。
 つまるところ、「初めもなく終わりもないいのち」とは、私達が母の胎内で過ごした時間かもしれません。いやそれ以前のDNAの記憶かもしれません。こうして、「マリアが子を宿しうる処女性」、「おとめである母」(教皇パウロ6世使徒的勧告『マリアーリス・クルトゥス』)という言葉の意味を初めて理解しえたのです。
また、私は5年ほど前にペンシルバニア州フィラデルフィアにあるフランクリン・ベンジャミン博物館で心臓外科手術のハンズオン展示を見たことがありますが、その時に見た心臓の生々しい映像が印象に残っています。心臓は地球のマグマを思わせる程、赤々と鼓動しながら血液を押し出し、身体の隅々まで巡らせるほど力強いものです。神様の愛はそれほどまでに激しいのですから、せっかくいただいたいのちを無駄にしないように次世代に受け継いでいかないといけません。それは遺伝子レベルの問題ではなく、神の愛のなせるわざです。そしてそれには祈りが伴わなければ、永遠性が伴いません。そういった意味での永遠のいのちともとらえることもできます。
さらに私は、永遠のいのちの場所とはどこかしら?心臓かしら?と疑問を持ちました。聖書にはいくらでも追及するテーマがあるのかもしれません。有名な言葉に、「魂を尽くし、心を尽くして汝の神を愛せよ」とありますが、HeartSpiritsも、mindも心なら、手話で心と表わす時にどこかしら?と手が胸の上をあちこち迷います。愛も聖霊も命も「心」なら、永遠のいのちはどこなのでしょう?
それも、お台場にある日本未来科学館での、脳科学・霊長類学・認知科学などの視点から「生物としての人間」の性質を見る展示で、一つのインスピレーションが与えられました。それは人間の「共感」「同調」「模倣」という心理行為を、チンパンジーと赤ちゃんとで比較したものです。つまり、チンパンジーは手とモノを同時に見るのですが、人間の赤ちゃんは、心を見るのだそうです(松沢哲郎「人間のこと」より)。私達が手を使って報酬を得ようとするのは、チンパンジーと同じなのですね。無条件の愛を知っている人間の赤ちゃんは、それ以前に神の心を与えられているのです。このことは私にとって大きな発見でした。私達は「心」を教育する事によって得るのではなく、それは既にあったのにもかかわらず、私達はそれを忘れてしまっていたのです。そしてその心は心臓部分にではなく、ちょうど天使の羽の付け根部分に知覚センサーが反応したということです。ちょうどお祈りする両手の裏側でした。神様がお創りになった人間の身体の神秘が、このように現れていることに感動しました。
  参考URL:「終わりから始まるものがたり. ―25の問いと100冊の本」http://hibiyal.jp/hibiya/exhibition2013/