2013年1月23日水曜日

Sさんへの手紙続き「高山右近の女性観について」


  私の母方の旧姓は安場ですが、明治維新で功労を果たしたとかで、華族の称号をもらい、一介の武士から貴族になったそうです。その子孫は赤穂浪士にも出てきます。母より上の世代は本当に華やかな経歴の方々ばかりで、直系の曾曾祖父はあの福島と神戸の県令を務めましたが、「清廉潔白」の政治家とまで云われた方です。その安場は安土桃山時代に細川忠興氏に仕えておりました。今でも一族のハトコは細川護煕元首相の茶会に招かれているようです。

  私も高山右近の名前は聞いたことがありますが、細川家との深い縁があることを知ったのは昨年、三浦綾子さんの小説「千利休とその妻たち」を読んでからなのです。麻布教会聖堂の後ろにそっと置いてあった中央協議会が作った右近についてのパンフレットを手にしたのがそれより半年前でしたから、聖霊のお導きでしょうか。

 私が生まれた年に亡くなった祖父ですが、東京帝国大学を出たとてもハンサムな人で、北海道で最初にアイスホッケーリンクを作ったぐらいのスポーツ好きでした。
 今、私の家に祖父の描いた絵が数枚、飾ってありますが、凡人とは思えないほどの腕前です。まさに文武両道を絵に描いたような人で私の憧れです。
 私の母は一族の中で最初にカトリックの洗礼を受け、私も祖父と母と同じ血液型ですし、またその家風から細川幽斎や忠興様、そして右近の人となりをある程度、想像できるのだと思います。従って信長とか秀吉、他の戦国時代の武将の事はちょっとわからないです。

  ですから右近が、ヨーロッパに女性をいわゆる、フィリッピンやタイでやっているのとは違うものだと思います。当時のヨーロッパではマリー・アントワネットでさえもオーストリアからフランスに輿入れ致しましたし、一種の国際交流の手段だったのかもしれません。
 戦争することしか外敵と接触する方法がなかった時代ですから。憧れのヨーロッパに嫌々行く訳はないですから、天正少年遣節と同じように考えていたのかもしれませんし。一種のお見合い産業でしょうか。

 ただ、日本の男性の女性観は、父達を見てもまだまだプリミティブであり、西洋のレディファーストからはまだまだ遠いと思います。女性でさえもアニミズムを脱していないと思える人がたくさんいますし。生活のあらゆる面で西欧化しているとはいえ、人間性において、日本人は内面的にはまだ原始的だと思います。さて脳診断から見ると、秀吉タイプというのは弟分に多いようです。融通のきかない頑固な家康型は、見かけは正反対ですが、岡田司教様と似ていますね。東大型でしょうか?松浦司教様はお話が上手ですが、決して長男にはなれないような気がします。

 私は赤坂生まれの赤坂育ちで、生後1年目からずっと同じ家に住んでいます。にもかかわらず東京のカトリック校に縁がなかったので、東京の司教様に親しみを感じることができませんでした。大阪の松浦司教様にお会いして初めて、潮見のカトリック中央協議会の門をくぐる事ができたのですが、今でも自分はカトリックの門外漢と云う感じが拭えません。 ちなみに心理学のエニアグラムで私の一番年の近い従妹は絶対主義者タイプで、岡田司教様に似ています。私は自己主張タイプなので、松浦型かもしれません。

 祖母の茶道のお稽古に曲がりなりにも真面目に通い、お免状を頂いたのは私とその従妹だけなのですが、私は今でも忘れないように立礼で練習しています。そして、お茶を点てながら思う事は当時、血なまぐさい戦場から帰ってきた武将たちが、翻ってあの清々しい茶室の空間で求めたのだろうかと云う事です。ある意味で怖いような狂気さえを感じます。

  今、この平和な時代に茶道は宗教的な意味合いをすっかり失って、文化的な色合いが濃くなっていますが、教会のミサも単なる「なごみ」とか、罪を犯した後の償いとしての儀式ではなく、無原罪のマリア様から生まれ、十字架の死に至るまで神様の愛に従ったイエス様の命を、いただく神秘を日本人にどうやって伝えたらいいのかと思いながら今日もお茶を点てています。

2013年1月19日土曜日

Sさんへの手紙「4つ目の脳―三位一体の脳」

  私の脳は診断によると、喋ったりするのがC(感性)型で見たりするのはD(未来)型の右脳なのですが、文章を書いたりメールしたりすると左脳型になるそうです。なので、Sさんのメールを読んで、お返事したものが知らず知らずのうちに反論のようになってしまったかもしれません。そうではなく、研究活動が長かったので、分析的か論理的に考えてしまう傾向があるのです。

従来の脳科学では左右の二つだけでしたが、ハーマン脳は辺縁体と大脳新皮質つまり、脳の内側と外側とさらに分かれます。心理学でもジギルとハイド型があるように、人間には少なくとも二面、或いは多面性が現れることが実証されています。ですからイエス様を中心にした聖霊の働きがいつも豊かにあるように祈らなければならないのでしょう。

男の子ばかり三人をお育てしたお姑様ですが、たとえば脳が4タイプあるとして、一つずつそれぞれの息子さんに適応するように(道具として)使っていたが、4つ目の脳はハーマンで云うと「忌避」部分に当たり、どうにもうまくコントロールできないので、いびってしまったと推理できます。イエス様でも四ではなく、三位一体と云いますから、四つ目は十字架の死になるのでしょう。A・オルコットの「若草物語」も「春琴抄」の四姉妹の母親は、女の子ばかりだから四つ目は脳のどこかではなく、同性の「ご胎内の愛(uncontrolled
love)になるのではないのでしょうか。

 ところで松浦司教様にも同じエッセイをお送りいたしましたが、以下のようなお返事を頂きました。
「今年は右傾化が具体的な政治に直接反映していく大変な年になると思います。参院選で自民党はじめ改憲派が勝つと一気に改憲へと突き進んでいくと思います。国会の場では少数派になっても、平和を願う市民の良識によって平和を守る力を示さなければと思います。それぞれの場で、それぞれの表現方法と行動で声をあげていきたいものです。」

 神道では今年は左だ、右だと流れがあるのでしょうが、長年左耳だけに補聴器を付けて世相をシビアに見てきた私にはそんなことはどうでもいいことなのです…。人間の左右脳は切り替え自在かもしれませんが、実は昨年末に臨床美術士の資格と取得するための講座を受け、アルツハイマー病などの痴呆症についても勉強いたしました。そこで高齢化に伴い、脳の働きが衰えると左脳が先にやられ、一方で右脳の働きは最後まで残る傾向にあることを知りました。

 明治生まれのお年寄りなどは若い時に試練を受けていますし腰がしまっていますから、急激な歴史の変遷についていけるのでしょうが、豊かさにどっぷり浸かった今の若い人たちはそういかないと思います。

 また脳革命とは簡単に云いますが、頭を使い過ぎますと頸椎が曲がり、腰が曲がり、若い人でも脳梗塞になったり股関節がずれたりします。表向きは健康そうに見えても、半病人のような日本人が増えてしまう可能性があります。本当の聡明な女性は国会の動きに頓着しないかもしれません。

 どんなに世界が揺れ動いても、父なる神を仰ぐ人間のバランス感覚があれば、地球の重力と月の引力には敵いません。教会暦もホロスコープと一致して書かれていると聞いたことがありますが、下山さんは何かご存じでいらっしゃいますか?私は聖書についてはかなり勉強不足です。幼児洗礼ですし、子どもの頃は耳が不自由なために教会のミサもぼんやり与っていましたので、宗教的なものは感性で(神秘は神秘として単純に)受け止めてきましたので、今はそれらをきちんと裏付けをしている段階です。
 

 今回はここまで。次回は高山右近について、Sさんのメールを読んでの考察を書きたいと思いますので、どうぞ宜しくお願いします

2013年1月16日水曜日

「ユスト高山右近の脳」

  昨年の初めころに、研究論文の一つの区切りとしてハーマン脳モデルのファシリテーターの資格を取得しました。これは従来の左右脳論をさらに辺縁体と大脳新皮質とに分けたもので、4つの象限になっています。これにより被験者の思考の癖を診断し、適性診断やコミュニケーションギャップの解消を図ることができるのです。

面白い事に歴史上の偉人でも、彼らの遺した文献などを基にそれぞれの脳のタイプを知る事もできます。事実的、形式的、感覚的、未来的な脳がありますが、あの有名な現代の聖女マザー・テレサは感覚型だそうです。後に述べる高山右近も書道と絵画、詩歌にも秀でていたそうですから、大体同じような脳かもしれません。シュバイッツアーがちょうど真ん中で他の聖人は調べないとわかりませんが、イエス様はそれを中心に十字架のように位置するのでしょう。

さて、安土桃山時代のカトリック大名高山右近は、書道と絵画、詩歌にも秀でていたそうですから感覚的にも優れていたと思われますが、先見の明に優れていたため未来的な要素も含まれています。時の施政者にはその誠実な人柄故に信頼されましたが、間違った政治的発言に対して勇気を持って意見を述べ、子どもの教育においても信仰を貫くように導き、脳の(人間性といった方がいいかもしれませんが)全ての面においてバランスの取れた方と推定できます。

私は、普段あまり小説は読みませんが、文学が感覚型にカテゴリー化されているので、本当に脳のバランスを取れるのか試しに、三浦綾子さんの「千利休とその妻たち」(新潮文庫)を読んでみました。

ところでなぜ千利休なのかと云いますと、母方の祖母が表千家の名師匠だった事もあり私は幼少のころから時々、お茶席にお相判しておりました。清々しいけれど隙のない厳しい日本の伝統文化と、神様の懐で自由に遊び戯れた放縦すれすれの青春時代と、それぞれ豊かな時間を思う存分、享受していました。しかしある時、イエズス会のピーター・ミルワード先生の「ミサと茶の文化」などの本を読む機会があり、私の中で長い間、二元論のままに残っていたこの二つの神概念が見事に融和されたのです。高山右近によれば、茶道は神との高尚な「遊び」であり、また福音の神髄を知る一つの手段となっていますが、千利休の所縁のものから何かイエス様のメッセージがわかるかもしれないと思ったのです。

「千利休とその妻たち」では、織田信長や豊臣秀吉などの戦国時代の名武将たちとの様々な駆け引きが繰り返されますが、いわゆる表に出ない微妙な心の襞まで書き表されているところはシェイクスピアの戯曲と似ています。信長や秀吉などの脳もハーマンで分類されているので、それに合わせて物語を読み進めていくと、それぞれの人物像が生き生きと浮かび上がってきます。

また私の母方の別の祖先が熊本の細川幽斎親子の旗本でしたが、利休の高弟と云われる七哲の一人でした。同じ七哲で信長と秀吉に仕え、列福調査中の右近も登場しており、その人となりが詳しく書かれています。

身近な人が出てくるので、かなり感情移入してしまいましたが、大きく拮抗する時代の権力の中で切支丹たちは、何のために犠牲になったのでしょうか?それだけ時代が「遠野物語」の苦しみに満ちており、迷信に従うよりも真の神の愛を悟った人たちがいたからです。愛を知らない臆病な施政者による迫害は、ホロコーストと同じように見えます。私たち日本人はアウシュビッツのユダヤ人には同情するのになぜ、切支丹迫害に対しては何も感じないのでしょうか?

鉄砲が伝来した直後に、キリスト教が人類の救いのために日本に入ってきたのです。ミルワード先生によりますと、茶道のお点前がミサの儀式の仕草と殆ど同じものがあるため、フランシスコ・ザビエルと千利休との間に親密な接触があったことは疑えません。最初はブランド品と同じで物珍しさで広まったキリスト教もその勢力が広まるにつれて、時の勢力者がキリスト教徒を異端分子として恐れたために抹殺されてしまったようです。

第二次世界大戦も、聖母マリアのとりなしが無ければ終わらなかったように、戦争(政治)とキリスト教は切っても切れない縁があります。社会学者の鶴見和子が云っているように、男性社会では自分の足元が見えなくなりがちです。原発問題や憲法九条問題など、目に見えない不穏な悪の力がはびこっている今、権力者の身近にいる人(特に婦人方)こそが立ち上がり、賢明な良心を示すべき時代が来ていると思います。

高山右近については、日本カトリック司教協議会 列聖列福特別委員会が2012年に発行した「現代にひびく右近の霊性」を参考にいたしましたが、右近の視点から日本における私たちの信仰のあり方を考えていきたいと思います。