2012年11月6日火曜日

西村先生への手紙

拝啓
青葉若葉の美しい季節となりました。いかがお過ごしでいらっしゃいますか?
先月末は、東銀座のギャラリー、そして愛知県陶磁資料館での「彫刻を聞き、土を語らせる」展、そして「手でみて作る」ワークショップで、本当に楽しいひと時をありがとうございました。
また、カタログの「THE SOUND OF SCULPTURE, THE VOICE OF CRAY」という言葉がすごく好きで、気に入っています。それ以来、土の声に耳を傾け、彫塑のメッセージが聴こえるようになりました。
 その後、先生の書かれた「手で見るかたち」を読み、共感するところがたくさんありました。実は、私の家の隣に東京ミッドタウンがあり、柱という柱に素敵な彫塑作品が埋め込まれているのですが、ワークショップを体験した後は、どれもこれもガラスの向こうにあって、「触れない」ことに何か冷たさを感じるようになりました。
さて東京に戻り、ずっとお手紙を書こうと思いながら、あれもこれも言いたいことが沢山出てきて、どこから切り出したらよいかわからずに、今日まできてしまいました。
 結局、私と西村陽平先生との出会いは作品を通してですが、もう二十年も前、サントリー美術館が赤坂見附にあった頃なので、ミヒャエル・エンデ式に現在から遡ってではなく、歴史学者のように出会いの時から思い出を辿りたいと思います。 “The Japanese Library”を観た時の瞬間を私は、今でもはっきり覚えております。
 私は横浜にある、フランシスコ会が経営する中学・高校に通っていました。美術の鑑賞教室で、山下公園のそばにある県立ホールで開催されていた、現代美術展を毎年、観に行っていました。現代の造形と「こんなもの」と「思い込んで」おりました。展覧会の後に毎回、レポートを提出していましたが。しかし今、思えば、どの作品も私の記憶に残っていないのです。
 旧サントリー美術館で観た、ガラス造形やその他のシンプルな彫塑作品も同様です。それなのに、それらの作品のちょうど真ん中奥に、突如として現れた、先生の作品は、ニューヨークの国連本部にある聖アグネス像の背中のケロイドのように、私の意識にペロッと焼きついてしまったのです。
 この時、この作品を作った方のお名前を確かめもせず、ただ「唖然」とし、ため息をつきました。その時は、どうしてかわかりませんでした。
実は私は、三歳時から二十代の初めまで、補聴器を装用していましたが、拡声された不明瞭な音になってしまうため、また、騒音がうるさくて沢山の本を読んでも残らないため、どんなに勉強しても、言葉が、いつの間にか灰になって脳の中にこびりついてしまったような気がしていました。つまり、私の潜在意識の奥に畳みこまれた言葉のイメージと、先生の作品が結びついたからに他なりません。
 それから私は、補聴器を装用するのを止めて、微かに耳に入ってくる音に耳をすませ、静謐な世界を取り戻し、そしてこの作品から受けた印象とは別の角度で本を読む事にしました。そうして私の中にやっと、言葉の蓄積ができるようになり、勉強が進みました。アートの鑑賞の仕方も、遠回りですがやっと、自然な感覚を通して楽しむ方向に向かって行きました。
 それから間もなくして私は、佐藤慶子さんが主宰する「音楽ワークショップ「響きの歌」で、約十間、ボランティア活動することになります。
 このワークショップは、佐藤さんが、私と同じく聴覚障害のある兄と、聾の俳優の米内山明宏さんが意気投合して始めたものです。 大学院に進学するために忙しくなる兄に代わりに手伝ってくれと頼まれて始めたのが、きっかけです。
 しかし中学生の時に、音楽担当の教師と「何で、音楽に五線譜があるんだよ!」と喧嘩した兄と、楽譜を見るだけで音楽的なメロディーを感じる私と、音楽の捉え方は全く違っていました。それは、ドイツの映画「ビヨンド・サイレンス」の兄妹そっくりです。その兄は、今では、障害者法に関する経済学者になりました。
 さて、兄と交代した私は、私なりに音楽ワークショップに親しみ、様々な聴力レベルの子供達の作りだす、個性豊かな音の世界に接し、音楽の本質を問い直すことになったのです。また、音楽の振動を通した水の踊るような波紋に、魂を揺さぶられる体験をしたのもこの頃です。
 そうです! 青山通りに面した草月会館か、ドイツ文化会館の地下ホールで、音楽ワークショップの一般公開があり、この時に壁を隔てた隣で同時開催されていたのが、先生のワークではなかったでしょうか?私の記憶違いでしたら、申し訳ありません。
 私はこの時に西村陽平の名前を始めて知りましたが、まだあの”The Japanese Library”の制作者だとは気付いていません。
 隣は、何する人?”粘土でワークショップ?””面白そうだけど、アイマスクをしたら何も見えないし、不安だわ”なんて思っていました。
 私は、美術はもうやらないの、音楽がやりたいのよ…。私は、幼稚園から絵画教室に通い、小学校の五年生から高校三年までの八年間、美術部に在籍していました。高校二年で、国連のポスターで横浜市と神奈川県で最優秀賞と優秀賞を戴きましたが、大学はどうせ耳が悪いから美術教師にはなれないから、一流のアーティストになるなら、東京藝大しかないわ、と勝手に決め込んでいました(よくも悪くも、当時の私の写真は、若い頃の先生にそっくりです)。
 しかし、絵を描き出すと没頭してしまい、徹夜してしまうので、当時は丈夫でなかった身体に無理がたたり、ダウンしてしまうので、次第に美大進学を諦めるようになりました。
 アートにのめり込むと言えば、聞こえはいいですが、この時、私は右耳がほとんど聴こえていなかったので、描けば描くほど、底なし沼のように、心だけでなく絵もダークトーンになり、シビアになってしまうのでした。
 その反動で、高校卒業後は絵をほとんど描かなくなり、英語や音楽、そしてファッションに親しみ、パステルカラーのような明るい青春時代を過ごしました。
 最近、「陰陽」という言葉がブームになっていますが、「陰」に弛める、「陽」に締める力があるそうです。私にとっては、絵画活動とは全く違う活動をすることが、「中庸」のバランスを取るために必要だったかもしれません。音楽ワークショップやコンサート活動を目一杯、楽しみ、大学も一応ちゃんと卒業して私はやっと、自分なりのアイデンティティを確立できるようになりました。
 私が日本女子大学を卒業したのは、一九九四年の秋でした。私は福本俊先生の指導のもとに、これまでの自分のワークショップ活動を客観的にリポートして、「聴覚障害児の抱える問題と音楽ワークショップのありかた~著者の体験を中心に~」をまとめ上げました。今、それを読み返せるかどうか自信はないのですが、当時、私が撮影した聴こえの不自由な子供達の表情が、先生の「掌の中の宇宙」とよく似ています。近いうちにそのアルバムをお見せしたいです。他に、テレビ放映された時のvTRもあります。
 先生が日本女子大学に講演にいらしたのもその頃ですね?穏やかな話しぶりが好きで気に入ったのを覚えています。
講演終了後に、私は音楽ワークショップ活動に関わっていることを話し、自己紹介しました。その時にやっと、先生と直接、知り合うことになったのです。
 それから間もなくして、銀座プランタンの並びの画廊で個展があり、その前後にあの”The Japanese Library”の作者だとわかった時に、私の時間が全て、20年前に遡りました。
 しかし、私は自分の中に原爆の灰のようなマインドがあるのを認めたくなくて、それからしばらく逃げ続けたのです。
 そうこうしているうちに、フランスの耳鼻科医師が開発した音楽療法の効果が出てきて、私の右耳が拓き始めたのです。これはワークショップ研究の段階で得た、新聞記事がきっかけで始めたのですが、それまでほとんど使われなかった右の聴覚が働き始めると、不思議な事に利き眼も変わってしまったのです。
 右耳が聴こえない時は、聴覚に代わって、文字情報などをキャッチしようとしますから、視覚がとても鋭くなります。当時は美術鑑賞よりも、建築に興味があり、インテリア・コーディネーターの資格取得の勉強をしたこともあります。
 しかし、右耳が使えるようになると、人間とは不思議なもので、右の視野は、聴覚の方にエネルギーを明け渡すようになりました。そのため私は、女子大に居た頃と比べて、本を読まなくなりました。
 鋭い視覚があった頃は、茶道具の展示会でもガラスガラス越しに名品の価値が一瞬でわかったのですが、今はそのために時間がかかるようになってしまいました。
 陶磁資料館で展示されている先生の作品が、一回だけ館内を歩いただけですが、今でもありありと思いだされます。それほど先生のアートのメッセージが私の中にすっぽりと入ってしまったことに我ながら驚いています。
 その中で特に好きなのは、「掌の中の宇宙」です。高田敏子さんの「水のこころ」のようにひたひたと水を入れてみたくなります。

 ワークショップで作った「ピーマン」の作品は、毎日、手で磨いています。ツルツルになったら、アクリル絵の具でペイントしてもいいですか?

人口内耳について


 こんにちは。 すっかり秋が深まって参りましたが、その後お変わりございませんか?
私は今年の1227日に、東京文化会館で開催される、ベートーベン「第9」の合唱舞踊劇「ルードヴィヒ」に出演するのですが、さっきリハーサルの時間を間違えてしまい、3時間半ほど空き時間が出来、こうしてSさんにお手紙を書いています。 そもそも私が、合唱団の連絡事項を聞き違えたことから、こういう間違いが起きたのですが、「失敗は成功の元」、スタッフの方々もこうして、聴覚障害者の対応についていろいろ学んでいただけたらと思っています。
 ところで私は、手話は高校2年の時に上智大学の文化祭で手話ソングを見たのが初めてで、その後30代に入ってから聴覚障害児のための音楽ワークショップという、ボランティア活動で、早大の手話サークルのメンバーの手話を見よう見まねでやっていましたので、学生手話(というものは本当はないですが、コンパ系の)がほとんどです。 そして今春に麻布教会に、カトリック聴覚障害者の会の稲川神父様が異動なさったこともあり、やっと典礼手話を覚えることができました。
 ただ私は、もともと手話のネイティブスピーカーではないし難聴でしたので、失聴した時から聴能訓練ばかりしていました。生活の中で手話を使うのは、一日単位ではなくて、1週間に1日それも、数時間あるかないかです。それに3歳の時から約20年余り、補聴器を左耳に装用していましたので、その後、後遺症のために額関節症にかかってしまい、さらに今年の3月の終わりにガレージの掃除でホコリアレルギーになってしまいました。そのため、左右どちらかの腕が同時に動けなくなることがたまにあり、慣れているお祈りの言葉や短い単語は大丈夫なのですが、手話だけでのコミュニケーションとなると、もうすっかりお手上げです。
 実は、亡くなった母が1990年にアメリカの障害者法(ADA)に刺激を受けて、教会に手話通訳の付けるように要請する手紙が数年前に出てきました。あれから22年経ち、今度は聾者と難聴者との間でいろいろ問題があることが明るみになってきました。それより前に一般社会では既に問題になってきていたのですが、難聴者の立場から私の場合に限って言いますと、聴能と言語のリハビリのために人一倍、よく聞き、喋る必要があり、聴覚につながる身体全体の構音器官をどんどん使わなければ、鈍り易いのです。
 従って、同じように手話を使ったとしても、脳の言語野においては、聴覚、視覚をフル稼働して大脳皮質の運動神経野も使い、不自由な耳と口をコントロールして喋ります。かといってこういった発話行為は決して、苦痛ではありません。聴こえないから黙っていて、と言われると時として、エネルギーが鬱屈してしまう事もあります。人と会って喋るのは好きですが、「口は災いの元」ですから、合唱団に入ったりしてるわけです。
 それから9月にいただいたお手紙の中で、田辺さんという方が人工内耳をされていたという事が書かれていましたが、私も10年程前に、慶大病院で勧められた事があります。最近、知り合った人工内耳の会の方や、国際医療福祉大の先生にもセールスされました。しかし私はそういった話には、次のように言ってお断りしています。
 私は大学在学中に心理学関係の講義で、アメリカのSF映画「アルジャーノンに花束を」を観た事があります。モノクロからカラー時代になったばかりの映画で、ややレトロ調の映像だったのを覚えています。そのストーリーというのが、アルジャーノンという青年に、知能を高めるための脳外科手術をするというもので私は、その上映中に気分が悪くなって教室を出て、下痢と吐き気をもよおしてしまいました。一緒に講義を受けていた他の学生は誰もそのような反応はなかったのですが、それは私が、子供の頃から補聴器を頭部に装着していたためと、それが左耳であったことから、感受性が人一倍、敏感になっていた事が原因と考えられます。
 それ以来、私の感覚の中で「ロボトミー(脳外科手術)」に対する拒絶感が起こるようになり、人工内耳をと勧められて「ロボトミー!」と叫んでしまいました。医者にとっては人工内耳手術をの際に、標本ではない本物の人工内耳を観察できるわけですから、何気なく言ったとしても、切られる側としては「人体実験」じゃないかと思ってしまうんですね。
聴覚の回復の見込みのなくなった子供に、万が一の望みを託して親御さんが、人工内耳手術をしてでも子供の耳を治してあげたいと思う気持ちはよくわかります。今まで全聾と言われてきた子供達が、トレーニング次第で聴こえ、喋れるようになったというデーターもありますし、人工内耳が是か非かと今は私には言える立場でないこともわかっています。
 しかし、よかれと思ってしたことが逆にトラブルの元になり、人間関係をも壊しかねません。 医学の進歩は素晴らしいと思いますが、個人的な関わりにおいて第三者の側からの無神経な発言があり、ちょっとやり過ぎと思う事があります。聴覚障害者の中にも体質によって、補聴器や人工内耳を付けたくないというデリケートな人がいるということをもっと知り、発言を控えてほしいと思っています。