2015年2月10日火曜日

Sさんへの手紙:人口内耳について

(前略)私は、手話は高校二年の時に上智大学の文化祭で手話ソングを見たのが初めてでした。その後三十代に入ってから聴覚障害児のための音楽ワークショップという、ボランティア活動で、早稲田大学の手話サークルのメンバーの手話をみよう見まねでやっていましたので、学生手話(というものは本当はないですが)レベルです。
しかし今春、麻布教会にカトリック聴覚障害者の会の稲川圭三様が着任なさったこともあり、やっと典礼手話も覚えることができました。
 ただ私は、もともと手話のネイティブスピーカーではないし難聴でしたので、失聴した時から聴能訓練ばかりしていました。我が家は今でも、聴能訓練のための教材や音響機器がたくさん残っています。当時はテレビも字幕放送はありませんでしたから、どうしても見たい番組は特別編に限って、予めテレビ局にお願いして前もって台本をもらって放映中は画面と首っぴきで読んだり、話のわかりやすいアナウンサーの出演するNHKニュースは毎回見ていました。歌謡番組は楽譜の付録が付いている雑誌を買って、歌手の歌うのに合わせて覚えたりしました。そのうちNHKの朝ドラで字幕が付くようになると、当時はそれしかないですから毎朝、
「峰ちゃん、『風見鶏』(当時の番組名)が始まるわよ!」とたたき起こされました。そのお蔭で、もともと低血圧で朝は弱いのですが、やっと起きられるようになりました。聴能力を上げるためには聴いたりするだけでなく話さなければならないので、我が家は兄妹三人共、大変なお喋りでした。
 ですから今では生活の中で手話を使うのは、一日単位ではなくて、一週間に一日それも、数時間あるかないかです。それに三歳の時から約二十年余り、補聴器を片耳だけに装用していましたのでその後、後遺症のために額関節症にかかってしまいました。さらに今年の三月の終わりにガレージの掃除でホコリアレルギーになってしまったのです。そのため、左右どちらかの腕が動けなくなることがたまにあり、慣れているお祈りの言葉や短い単語は大丈夫なのですが、手話だけでのコミュニケーションとなると、もうすっかりお手上げで、日常生活に於いてはもっぱら口話中心です。
 実は亡くなった母が、一九九〇年にアメリカの障害者法(ADA)に刺激を受けて、教会に手話通訳の付けるように要請する手紙が数年前に出てきました。あれから二十二年経ち、今度は聾者と難聴者との間でいろいろ問題があることが明るみになってきました。それより前に一般社会では既に問題になってきていたのですが、難聴者の立場から私の場合に限って言いますと、聴能と言語のリハビリのために人一倍よく聞いて、喋る必要があり、聴覚につながる身体全体の構音器官をどんどん使わなければ、鈍り易いのです。
 従って、同じように手話を使ったとしても、脳の言語野においては、聴覚、視覚をフル稼働して大脳皮質の運動神経を刺激して、不自由な耳と口をコントロールして喋ります。かといってこういった発話行為は時に困難を伴うことはありますが、決して苦痛ではありません。聴こえないから黙っていて、と言われると時としてエネルギーが鬱屈してしまう事もあります。人と会って喋るのは好きですが、「口は災いの元」ですから歌う事でストレス発散すればいいと思い、合唱団に入ったりしてるわけです。
 それから九月にいただいたお手紙の中でTさんという方が人工内耳をされていたという事が書かれていましたが、私も十年程前に大学病院で勧められた事があります。最近、知り合った人工内耳の会の方や、リハビリ関係の大学教授にもセールスされました。しかし私はそういった話には、次のように言ってお断りしています。
 私は大学在学中に心理学関係の講義で、アメリカのSF映画「アルジャーノンに花束を」を観た事があります。モノクロからカラー時代になったばかりの映画で、ややレトロ調の映像だったのを覚えています。そのストーリーというのが、アルジャーノンという青年に、知能を高めるための脳外科手術をするというもので私は、その上映中に気分が悪くなって教室を出て、下痢と吐き気をもよおしてしまいました。一緒に講義を受けていた他の学生は誰もそのような反応はなかったのですが、それは私が、子供の頃から補聴器を頭部に装着していたためと、それが左耳であったことから、感受性が人一倍、敏感になっていた事が原因と考えられます。
 それ以来、私の感覚の中で「ロボトミー(脳外科手術)」に対する拒絶感が起こるようになり、人工内耳をと勧められて「ロボトミー?!」と叫んでしまいました。医者にとっては人工内耳手術の際に、標本ではない本物の人工内耳を観察できるわけですから、何気なく言ったとしても、切られる側としては「人体実験」じゃないかと思ってしまうんですね。
聴覚の回復の見込みのなくなった子供に、万が一の望みを託して親御さんが、人工内耳手術をしてでも子供の耳を治してあげたいと思う気持ちはよくわかります。今まで全聾と言われてきた子供達が、トレーニング次第で聴こえ、喋れるようになったというデーターもありますし、人工内耳が是か非かと今は私には言える立場でないこともわかっています。
 しかし、よかれと勧めたことが逆にトラブルの元になり、人間関係をも壊しかねません。 医学の進歩は素晴らしいと思いますが、個人的な関わりにおいて第三者の側からの無神経な発言があり、ちょっと言い過ぎと思う事があります。現状では私の場合、たとえ重度の聴力損失レベルでも、トマティスのCAVなどの骨導やクラシックなどの声楽ゴレーニングを続ければ、人工内耳どころか、補聴器も必要ないと思います。聴覚障害者の中にも体質によって、補聴器や人工内耳を付けたくないというデリケートな人がいるということをもっと知り、発言を控えてほしいと思っています。