2012年11月6日火曜日

西村先生への手紙

拝啓
青葉若葉の美しい季節となりました。いかがお過ごしでいらっしゃいますか?
先月末は、東銀座のギャラリー、そして愛知県陶磁資料館での「彫刻を聞き、土を語らせる」展、そして「手でみて作る」ワークショップで、本当に楽しいひと時をありがとうございました。
また、カタログの「THE SOUND OF SCULPTURE, THE VOICE OF CRAY」という言葉がすごく好きで、気に入っています。それ以来、土の声に耳を傾け、彫塑のメッセージが聴こえるようになりました。
 その後、先生の書かれた「手で見るかたち」を読み、共感するところがたくさんありました。実は、私の家の隣に東京ミッドタウンがあり、柱という柱に素敵な彫塑作品が埋め込まれているのですが、ワークショップを体験した後は、どれもこれもガラスの向こうにあって、「触れない」ことに何か冷たさを感じるようになりました。
さて東京に戻り、ずっとお手紙を書こうと思いながら、あれもこれも言いたいことが沢山出てきて、どこから切り出したらよいかわからずに、今日まできてしまいました。
 結局、私と西村陽平先生との出会いは作品を通してですが、もう二十年も前、サントリー美術館が赤坂見附にあった頃なので、ミヒャエル・エンデ式に現在から遡ってではなく、歴史学者のように出会いの時から思い出を辿りたいと思います。 “The Japanese Library”を観た時の瞬間を私は、今でもはっきり覚えております。
 私は横浜にある、フランシスコ会が経営する中学・高校に通っていました。美術の鑑賞教室で、山下公園のそばにある県立ホールで開催されていた、現代美術展を毎年、観に行っていました。現代の造形と「こんなもの」と「思い込んで」おりました。展覧会の後に毎回、レポートを提出していましたが。しかし今、思えば、どの作品も私の記憶に残っていないのです。
 旧サントリー美術館で観た、ガラス造形やその他のシンプルな彫塑作品も同様です。それなのに、それらの作品のちょうど真ん中奥に、突如として現れた、先生の作品は、ニューヨークの国連本部にある聖アグネス像の背中のケロイドのように、私の意識にペロッと焼きついてしまったのです。
 この時、この作品を作った方のお名前を確かめもせず、ただ「唖然」とし、ため息をつきました。その時は、どうしてかわかりませんでした。
実は私は、三歳時から二十代の初めまで、補聴器を装用していましたが、拡声された不明瞭な音になってしまうため、また、騒音がうるさくて沢山の本を読んでも残らないため、どんなに勉強しても、言葉が、いつの間にか灰になって脳の中にこびりついてしまったような気がしていました。つまり、私の潜在意識の奥に畳みこまれた言葉のイメージと、先生の作品が結びついたからに他なりません。
 それから私は、補聴器を装用するのを止めて、微かに耳に入ってくる音に耳をすませ、静謐な世界を取り戻し、そしてこの作品から受けた印象とは別の角度で本を読む事にしました。そうして私の中にやっと、言葉の蓄積ができるようになり、勉強が進みました。アートの鑑賞の仕方も、遠回りですがやっと、自然な感覚を通して楽しむ方向に向かって行きました。
 それから間もなくして私は、佐藤慶子さんが主宰する「音楽ワークショップ「響きの歌」で、約十間、ボランティア活動することになります。
 このワークショップは、佐藤さんが、私と同じく聴覚障害のある兄と、聾の俳優の米内山明宏さんが意気投合して始めたものです。 大学院に進学するために忙しくなる兄に代わりに手伝ってくれと頼まれて始めたのが、きっかけです。
 しかし中学生の時に、音楽担当の教師と「何で、音楽に五線譜があるんだよ!」と喧嘩した兄と、楽譜を見るだけで音楽的なメロディーを感じる私と、音楽の捉え方は全く違っていました。それは、ドイツの映画「ビヨンド・サイレンス」の兄妹そっくりです。その兄は、今では、障害者法に関する経済学者になりました。
 さて、兄と交代した私は、私なりに音楽ワークショップに親しみ、様々な聴力レベルの子供達の作りだす、個性豊かな音の世界に接し、音楽の本質を問い直すことになったのです。また、音楽の振動を通した水の踊るような波紋に、魂を揺さぶられる体験をしたのもこの頃です。
 そうです! 青山通りに面した草月会館か、ドイツ文化会館の地下ホールで、音楽ワークショップの一般公開があり、この時に壁を隔てた隣で同時開催されていたのが、先生のワークではなかったでしょうか?私の記憶違いでしたら、申し訳ありません。
 私はこの時に西村陽平の名前を始めて知りましたが、まだあの”The Japanese Library”の制作者だとは気付いていません。
 隣は、何する人?”粘土でワークショップ?””面白そうだけど、アイマスクをしたら何も見えないし、不安だわ”なんて思っていました。
 私は、美術はもうやらないの、音楽がやりたいのよ…。私は、幼稚園から絵画教室に通い、小学校の五年生から高校三年までの八年間、美術部に在籍していました。高校二年で、国連のポスターで横浜市と神奈川県で最優秀賞と優秀賞を戴きましたが、大学はどうせ耳が悪いから美術教師にはなれないから、一流のアーティストになるなら、東京藝大しかないわ、と勝手に決め込んでいました(よくも悪くも、当時の私の写真は、若い頃の先生にそっくりです)。
 しかし、絵を描き出すと没頭してしまい、徹夜してしまうので、当時は丈夫でなかった身体に無理がたたり、ダウンしてしまうので、次第に美大進学を諦めるようになりました。
 アートにのめり込むと言えば、聞こえはいいですが、この時、私は右耳がほとんど聴こえていなかったので、描けば描くほど、底なし沼のように、心だけでなく絵もダークトーンになり、シビアになってしまうのでした。
 その反動で、高校卒業後は絵をほとんど描かなくなり、英語や音楽、そしてファッションに親しみ、パステルカラーのような明るい青春時代を過ごしました。
 最近、「陰陽」という言葉がブームになっていますが、「陰」に弛める、「陽」に締める力があるそうです。私にとっては、絵画活動とは全く違う活動をすることが、「中庸」のバランスを取るために必要だったかもしれません。音楽ワークショップやコンサート活動を目一杯、楽しみ、大学も一応ちゃんと卒業して私はやっと、自分なりのアイデンティティを確立できるようになりました。
 私が日本女子大学を卒業したのは、一九九四年の秋でした。私は福本俊先生の指導のもとに、これまでの自分のワークショップ活動を客観的にリポートして、「聴覚障害児の抱える問題と音楽ワークショップのありかた~著者の体験を中心に~」をまとめ上げました。今、それを読み返せるかどうか自信はないのですが、当時、私が撮影した聴こえの不自由な子供達の表情が、先生の「掌の中の宇宙」とよく似ています。近いうちにそのアルバムをお見せしたいです。他に、テレビ放映された時のvTRもあります。
 先生が日本女子大学に講演にいらしたのもその頃ですね?穏やかな話しぶりが好きで気に入ったのを覚えています。
講演終了後に、私は音楽ワークショップ活動に関わっていることを話し、自己紹介しました。その時にやっと、先生と直接、知り合うことになったのです。
 それから間もなくして、銀座プランタンの並びの画廊で個展があり、その前後にあの”The Japanese Library”の作者だとわかった時に、私の時間が全て、20年前に遡りました。
 しかし、私は自分の中に原爆の灰のようなマインドがあるのを認めたくなくて、それからしばらく逃げ続けたのです。
 そうこうしているうちに、フランスの耳鼻科医師が開発した音楽療法の効果が出てきて、私の右耳が拓き始めたのです。これはワークショップ研究の段階で得た、新聞記事がきっかけで始めたのですが、それまでほとんど使われなかった右の聴覚が働き始めると、不思議な事に利き眼も変わってしまったのです。
 右耳が聴こえない時は、聴覚に代わって、文字情報などをキャッチしようとしますから、視覚がとても鋭くなります。当時は美術鑑賞よりも、建築に興味があり、インテリア・コーディネーターの資格取得の勉強をしたこともあります。
 しかし、右耳が使えるようになると、人間とは不思議なもので、右の視野は、聴覚の方にエネルギーを明け渡すようになりました。そのため私は、女子大に居た頃と比べて、本を読まなくなりました。
 鋭い視覚があった頃は、茶道具の展示会でもガラスガラス越しに名品の価値が一瞬でわかったのですが、今はそのために時間がかかるようになってしまいました。
 陶磁資料館で展示されている先生の作品が、一回だけ館内を歩いただけですが、今でもありありと思いだされます。それほど先生のアートのメッセージが私の中にすっぽりと入ってしまったことに我ながら驚いています。
 その中で特に好きなのは、「掌の中の宇宙」です。高田敏子さんの「水のこころ」のようにひたひたと水を入れてみたくなります。

 ワークショップで作った「ピーマン」の作品は、毎日、手で磨いています。ツルツルになったら、アクリル絵の具でペイントしてもいいですか?

人口内耳について


 こんにちは。 すっかり秋が深まって参りましたが、その後お変わりございませんか?
私は今年の1227日に、東京文化会館で開催される、ベートーベン「第9」の合唱舞踊劇「ルードヴィヒ」に出演するのですが、さっきリハーサルの時間を間違えてしまい、3時間半ほど空き時間が出来、こうしてSさんにお手紙を書いています。 そもそも私が、合唱団の連絡事項を聞き違えたことから、こういう間違いが起きたのですが、「失敗は成功の元」、スタッフの方々もこうして、聴覚障害者の対応についていろいろ学んでいただけたらと思っています。
 ところで私は、手話は高校2年の時に上智大学の文化祭で手話ソングを見たのが初めてで、その後30代に入ってから聴覚障害児のための音楽ワークショップという、ボランティア活動で、早大の手話サークルのメンバーの手話を見よう見まねでやっていましたので、学生手話(というものは本当はないですが、コンパ系の)がほとんどです。 そして今春に麻布教会に、カトリック聴覚障害者の会の稲川神父様が異動なさったこともあり、やっと典礼手話を覚えることができました。
 ただ私は、もともと手話のネイティブスピーカーではないし難聴でしたので、失聴した時から聴能訓練ばかりしていました。生活の中で手話を使うのは、一日単位ではなくて、1週間に1日それも、数時間あるかないかです。それに3歳の時から約20年余り、補聴器を左耳に装用していましたので、その後、後遺症のために額関節症にかかってしまい、さらに今年の3月の終わりにガレージの掃除でホコリアレルギーになってしまいました。そのため、左右どちらかの腕が同時に動けなくなることがたまにあり、慣れているお祈りの言葉や短い単語は大丈夫なのですが、手話だけでのコミュニケーションとなると、もうすっかりお手上げです。
 実は、亡くなった母が1990年にアメリカの障害者法(ADA)に刺激を受けて、教会に手話通訳の付けるように要請する手紙が数年前に出てきました。あれから22年経ち、今度は聾者と難聴者との間でいろいろ問題があることが明るみになってきました。それより前に一般社会では既に問題になってきていたのですが、難聴者の立場から私の場合に限って言いますと、聴能と言語のリハビリのために人一倍、よく聞き、喋る必要があり、聴覚につながる身体全体の構音器官をどんどん使わなければ、鈍り易いのです。
 従って、同じように手話を使ったとしても、脳の言語野においては、聴覚、視覚をフル稼働して大脳皮質の運動神経野も使い、不自由な耳と口をコントロールして喋ります。かといってこういった発話行為は決して、苦痛ではありません。聴こえないから黙っていて、と言われると時として、エネルギーが鬱屈してしまう事もあります。人と会って喋るのは好きですが、「口は災いの元」ですから、合唱団に入ったりしてるわけです。
 それから9月にいただいたお手紙の中で、田辺さんという方が人工内耳をされていたという事が書かれていましたが、私も10年程前に、慶大病院で勧められた事があります。最近、知り合った人工内耳の会の方や、国際医療福祉大の先生にもセールスされました。しかし私はそういった話には、次のように言ってお断りしています。
 私は大学在学中に心理学関係の講義で、アメリカのSF映画「アルジャーノンに花束を」を観た事があります。モノクロからカラー時代になったばかりの映画で、ややレトロ調の映像だったのを覚えています。そのストーリーというのが、アルジャーノンという青年に、知能を高めるための脳外科手術をするというもので私は、その上映中に気分が悪くなって教室を出て、下痢と吐き気をもよおしてしまいました。一緒に講義を受けていた他の学生は誰もそのような反応はなかったのですが、それは私が、子供の頃から補聴器を頭部に装着していたためと、それが左耳であったことから、感受性が人一倍、敏感になっていた事が原因と考えられます。
 それ以来、私の感覚の中で「ロボトミー(脳外科手術)」に対する拒絶感が起こるようになり、人工内耳をと勧められて「ロボトミー!」と叫んでしまいました。医者にとっては人工内耳手術をの際に、標本ではない本物の人工内耳を観察できるわけですから、何気なく言ったとしても、切られる側としては「人体実験」じゃないかと思ってしまうんですね。
聴覚の回復の見込みのなくなった子供に、万が一の望みを託して親御さんが、人工内耳手術をしてでも子供の耳を治してあげたいと思う気持ちはよくわかります。今まで全聾と言われてきた子供達が、トレーニング次第で聴こえ、喋れるようになったというデーターもありますし、人工内耳が是か非かと今は私には言える立場でないこともわかっています。
 しかし、よかれと思ってしたことが逆にトラブルの元になり、人間関係をも壊しかねません。 医学の進歩は素晴らしいと思いますが、個人的な関わりにおいて第三者の側からの無神経な発言があり、ちょっとやり過ぎと思う事があります。聴覚障害者の中にも体質によって、補聴器や人工内耳を付けたくないというデリケートな人がいるということをもっと知り、発言を控えてほしいと思っています。

2012年10月11日木曜日

「ペンダコの心」

天高く馬超える季節になりました。その後、いかがお過ごしでいらっしゃいますか?
ところで9月初めに頂いたメールのお返事をしようと思いつつ、早くもひと月以上が経ってしまいました。
というのはS様のメッセージの行間に、私はいくつもの言葉を埋め込みたくなってしまったからです。
ちょっとお返事するぐらいなら、パソコンのキーボードを叩くだけで済みますが、心を込めて書く場合はやはり、紙にペン書きですね。
なお、今回のお手紙はノートに書いたものをパソコンに入力しています。あしからず、ご了承ください。 

ところで私は子どもの頃から、「かく」―「描く、書く」といった作業を通して、ひたすら勉強してきました。また、疲れた時に頭や腕を「掻く」といった動作も含まれています。

最近は、エッセイの発想が浮かばず、またペンダコが痛みますので、しばらく執筆をお休みしていました。しかしある時、右手の薬指の爪の脇に、「温湿布」を小さく切って貼ってみましたら、それがとても気持ちよかったのです。そのまま、鍼灸師のところに行きましたら、「ここの経絡があなたの心臓とつながっている」と言われました。

さらに音楽療法を受けている時に、ペンダコの所を意識して喋っていると自分や相手の喋っている内容がよくわかるので、そこが言語脳とつながっている可能性があるのではないかと気づきました。
そうこうしている内に、それからしばらくしてやっと、文章がまた書けるようになりました。
 
自分の心を「書く」ことで表現することのきっかけはもう一つあります。
数年前にスポーツクラブ内のフリータイムレッスンでやっていた「アート書道」にふらりと加わわり、書に真剣に取り組んでいる方々の姿勢を見て、自分もマザー・テレサの「大切なのは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです」という言葉を書にしたためてみました。

そして、それを麹町教会の女子パウロ会の売店のシスターのところに持っていきましたら、私が特に心して書いた「心」という文字にシスターの意識が集中したのです。我ながら、書の力ってすごい!と思いました。そしてその書を、シスターは売店のファクス機の横に設置してくださったのです。 

それ以来、松浦司教様の出された本とか、ヨハネ・パウロ二世の本とか、崇高な方々のちょっと読んでもわからない文章を、読むだけでなくノートに「写経」してみたら、神様の心が入ってくることがわかりました。しかしそれらの言葉は、私を束縛することはなく、栄光に至る放縦ではない、真の自由をくださる天使の羽だったのです。

 最近はパソコンや携帯の普及で、ペンダコを「テコ」にして文章表現しなくなっていますが、少なくとも私たちの世代以上は、ペンで書くといった体の歴史が染みついていますので、私は聖書の講習会は、神父様のお話を聴いたり、読んだり、歌ったり、黙想するだけでなく、聖書を「書く」といったものもあったらいいと思っています。

2012年10月4日木曜日

「比喩的言語・象徴的言語としての手話」




私は以前、在籍していた教会で、教会学校のリーダーを10年務めましたが、その時子どもミサの本の中に次のような聖歌がありました。

もしも、キリストに結ばれているなら

それは、キリストの命を生きるもの

だから、キリストと同じ血を受けて

必ず、キリストの復活にも与る

罪のからだが滅ぼされ 罪から解かれ

死者の中から生かされた命に生きる

(「あたらしい人になるように」ローマ6章)

この歌詞の「罪のからだ」という言葉は、若かった私にはまったく無縁といっていいほどでした。しかし年をとるにつれて(というのもまだ早いかもしれませんが)、生きていく事の難しさを感じるようになり、その度に教会のミサだけでなく、茶道でもペン習字道でも、声楽でも、ヨガでもなんでも、イエス様の教えてくださった「道(タオ)」に連なるもので心を静めてきました。しかし「道」を極めようとすればするほど、日常生活の雑多な動作のために、身体の「道」がずれて、痛み出してしまうということも起こりました。しかし、私たちには「道」なくしては生きていくことはできませんから、永遠に「道」を整え続ける運命を持つのが人間です。

ところで私は、ごミサの典礼が時には全く、心のないままに文字を追っていることがあります。頭を切り換え、何度も読み返してみますが、抽象的な言葉は理性では何のことやらさっぱり分からず、カタカナの字面を並べただけの文章なら、暗号と思い、読み飛ばしてしまうわけです。

 友人に教会の手話通訳をしている人がいて一時期、教わっていましたが、通訳ではこういった文字の羅列も丁寧に訳していきます。しかし、お祈りを全身全霊で表現していきますから、言葉のイメージが口に出すよりも遥かに、豊かになり、想像力の翼がはためきます。彼女と、典礼手話も「道」のひとつかもしれないねと話したことがありました。神様の言葉を、写経のように自分の手で表現していくからです。

一方で、聖書の中の「神は愛である」とか心象的なメッセージは、手話にすると嘘っぽくなってしまいます。だから難しいのですが、逆に「グロリア」とか「アレルヤ」「ホザンナ」などのラテン語は特に、手話を加えた方が意味もわかり、生き生きしてきます。

さて、日本には、「秘すれば花」と言われるように、あまりオーバーに表現しない方がいいという文化がありますね。そういった日本的な表現を西洋から来たキリスト教の神概念とどちらがいいというのではなく、「ミックスジュース」のように味わい、受け止めるというのが現代の日本のミサに求められる姿勢かもしれません

先日、前教皇ヨハネ・パウロ二世がインタビューに応じた「希望の扉を開く」(同朋舎出版)という本に、手話を象徴的言語として捉えて解釈してみてですが、こう書いてありました。

(現代思想は、人間についてのより充実した発見をするという著しい進歩を見せたのは)比喩的言語と象徴的言語との価値を認めた点です。(中略)新しい角度からの人間観、世界観が示されています。実証主義がこの、より全体的な理解から私たちを遠ざけたり、ある意味では締出したりすればするほど、象徴的な表現の意味を探る解釈学は、その分、より全体的な理解を再発見させ、さらにはある仕方でそれを深めさせさえするのです。だからといって、神と信仰の諸真理とに関する真の概念を言語で表現する能力が理性はないなどと言うつもりのないことはもちろんです。

祈りにはミサの中で共に祈る等身大のものと、一人で神との対話する時の小さな心の映像を持つものと二つありますが、舞踊家ほどではないにしても、子どもの頃にからだ全体で祈る機会が少なかった日本人には、改めて身体で祈ることを通して神を知る必要があるのかもしれません。

2012年9月28日金曜日

先週の日曜日、東日本大震災復興支援「わたしのヒロシマ」~絵本朗読と手話ソングで平和のメッセージを~コンサートが無事に終了いたしました。

当日は大雨にもかかわらず、約100人のお客様にいらしていただき、
カリタス・ジャパンに10万円、ドイツ国際平和村に1万円、HPS国際ボランティアに1万4千円の支援金をお送りする事ができました。

皆様のご協力を心より感謝申し上げます。

2012年7月5日木曜日

東日本大震災復興支援コンサート

わたしのヒロシマ
~絵本朗読と手話ソングで平和のメッセージを~

201292314:00開演 13:30開場
OAGドイツ東洋文化研究協会 OAGホール
チケット:一般 ¥3,000/学生 ¥1,500 (全席自由)

パイオニア(株)のご協力により、聴覚障害者のための体感振動システム席を20席、無料でご用意いたします。

ご希望の方は、お気軽に主催者までお問い合わせください。
【プログラム】
  • 朗読「わたしのヒロシマ」 森本順子 絵・文 HPS国際ボランティア刊…春日 玲(朗読家)
  • 「ふるさと」高野辰之 作詞 岡野貞一 作曲…鈴木 絵麻(歌と手話)、渡辺まどか(ピアノとサウルハープ)
  • 「折り鶴」梅原司平 作詞作曲…鈴木 絵麻(歌と手話)、渡辺まどか(ピアノとサウルハープ)
  • Ave Mari a” Franz Schuber t 作曲…藤野 沙優(ソプラノ)
  • ゴスペル手話コーラス“Amazing Grace” John Newto n 作曲 岩谷時子 訳詞
  • 被災地者で生きる人々の記録 萩尾信也(毎日新聞記者)
[お申し込み先] Fax03-3401-8750  E-mailmoreen@xc4.so-net.ne.jp

後援|ドイツ連邦共和国大使館、日本カトリック正義と平和協議会、カリタス・ジャパン、ドイツ国際平和村
協力|HPS国際ボランティア、パイオニア㈱
主催|Maria Arts & Music PEACE9
コンサート収入の一部を、カリタス・ジャパンに寄付し、東日本大震災復興支援に役立てます。

2012年6月1日金曜日

Amazing Grace ゴスペルコーラスメンバー募集




チャリティコンサートで、Amazing Graceを手話ソングや歌、楽器で参加しませんか?

コンサート名:
東日本大震災被災者支援「わたしのヒロシマ」
~絵本朗読と手話ソングで平和のメッセージを~
u コンサート日時:2012923日(日)午後2:004:00
u コンサート会場:(社)OAGドイツ東洋文化研究協会 OAGホール
東京都港区赤坂7-5-56 Tel: 03-3582-7743
(メトロ青山一丁目駅または、赤坂見附駅より徒歩)
出演者本人はチケット代無料です。
その他、受付や宣伝などのボランティアも同時募集中!

u 手話ソング 練習場所:カトリック世田谷教会 カマボコ部屋

    東京都世田谷区世田谷1-45-12  Tel:03-3467-0974

   (小田急線 下北沢駅または、井の頭線 池の上駅より徒歩)

◆ 楽器 練習場所:カトリック喜多見教会 信徒会館
u 練習日時:主に第4土曜日 正午~2:30、その他平日もあり
u 練習会費:一回700円(内訳:教会への献金500円、及び諸経費)

手話ソングコーラスグループ“Cross Sign Choir”の活動に参加してもらう形になりますので、Amazing Grace の他、日本の歌も12曲、練習します。これは今回のコンサートでは歌いませんが、手話に親しんでもらうためのものです。
その他、各自のグループで練習していただくこともできます。2回程度、総合リハーサルを数回行う予定です。


【お問い合わせ先】
森 峰子 Emailmoreen@xc4.so-net.ne.jp Fax03-3401-8750
内村真由美 Emaill.p.s.b.114@i.softbank.jp

お申し込みの際は、お名前、連絡先、参加するパートをお知らせください(例:手話ソング、ソプラノ、アルト、テノール、バス、楽器名、または手話のみなど)

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u  手話ソング 練習場所:カトリック世田谷教会 カマボコ部屋

東京都世田谷区世田谷1-45-12  Tel:03-3467-0974

(小田急線 下北沢駅または、井の頭線 池の上駅より徒歩)

 ◆ 楽器 練習場所:カトリック喜多見教会 信徒会館

u  練習日時:主に第4土曜日 正午~2:30、その他平日もあり

u  練習会費:一回700円(内訳:教会への献金500円、及び諸経費)



   手話ソングコーラスグループ“Cross Sign Choir”の活動に参加してもらう形になりますので、Amazing Grace の他、日本の歌も12曲、練習します。これは今回のコンサートでは歌いませんが、手話に親しんでもらうためのものです。

   その他、各自のグループで練習していただくこともできます。2回程度、総合リハーサルを数回行う予定です。



【お問い合わせ先】

森 峰子 Emailmoreen@xc4.so-net.ne.jp   Fax03-3401-8750

内村真由美 Emaill.p.s.b.114@i.softbank.jp



お申し込みの際は、お名前、連絡先、参加するパートをお知らせください(例:手話ソング、ソプラノ、アルト、テノール、バス、楽器名、または手話のみなど)

2012年5月30日水曜日

ミカエル 松浦悟郎補佐司教様

「 彼はわたしを神殿の入口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧きあがって、東の方へ流れていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。 彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。(旧約聖書 エゼキエル書「命の水」より 471~2)」

  三年前の夏、私は、東横線から見える小高い丘の上にあるカトリック田園調布教会で、松浦悟郎司教様のお話を聞いたとき恐らく、エキゼルのように言葉が、私の中を駆け巡ったような気がします。

 それまで、私はカルメル会が経営する同じ世田谷宣教体グループの上野毛教会の教会学校のリーダーを十年務め、神父様や子供たち、上野毛の家族のような方々のお蔭で、人間的に大きく成長することができました。しかしその後十年間、私はなかなか飛び立てない仔鳩のような自分から一日も早く、決別しようとしてもがいていました。

 ミサのお説教がわからないから、という口実の元に、上野毛と一番近い田園調布教会の手話ミサに通うようになったある日、大阪教区の補佐司教でいらっしゃる松浦司教様が田園調布教会にいらっしゃったのです。

 司教様はミトラ(宝冠)を被って、一段と高い所にある祭壇から、私たちの信徒席近くまで、下りてこられました。 ミサの式次第やお説教、聖歌などはすべて、手話通訳がついていますが、私はいつも、神父様との一体感を求めて、なるべく自分の意識を司祭と一致させるように努力しています。手話通訳を見つつ、司教様のお声や話しぶりに集中して聞き入りました。そして、いつものようにミサが終わった後、私の中で何かが変わったのです。

田園調布教会は、聖フランシスコの霊性のもとに神の摂理が働いていますから、どちらかというと教区の教会やイエズス会のとは違った、素朴な友愛精神が溢れているところです。また、住宅街の真ん中にありますから、一般社会問題とはかけ離れた感があり、お年寄りや女・子供には天国といったようなのどかさがあります。

 御ミサの後に、言語脳が刺激された手話グループの方々との口八丁手八丁のお喋りは楽しくて、一~二時間があっという間に過ぎてしまうほどです。こんな時間も幸せのうちとは思いつつ、また人生の足踏み状態に陥ってしまうのではないかという不安が心のどこかにありました。

 そんなときに松浦司教様のごミサに与かったのです。その後に私は、教会の喫茶室で冨澤さんという、「地に平和」というカトリック正義と平和協議会「ピース9の会」を作ったおば様にお尋ねしました。
「あの司教様はどなたですか?」
 冨澤さんは、大阪の松浦司教様で、ピース9の会の呼びかけ人でいらっしゃることを教えてくださいました。年齢は六十歳ぐらい、ハンサムでおば様方の中にも人気があるとのことでした。 ハンサムな司教様にミーハーなおば様か…。前の教会でも人気のある神父様がいらっしゃいましたから、最初はそんな印象だったと思います。

 ただ、私の中で長い間、凍り付いたり、生ぬるくなっていた部分に杭が打たれたような感があり、そこから新たな力が湧き出てくるのを感じていました。
 そして、司教様に私のエッセイ「マリア・エリザベートの音楽―拓かれた耳の贈り物―」(PHPパブリッシング㈱刊)をお送りし、それから間もなくして、ドイツ国際平和村支援のチャリティコンサートに協力をお願いするまでにどんな、いきさつがあったのか、自分でも覚えていません。すべて、聖霊がなさったことのようです。

 ただ、私たち戦争と戦後を知らない世代にとって、「ピース9」が掲げる憲法九条のテーマは重たく感じました。平和な今を生きる私たちにとって、戦争とは何か?それは、一昨年のドイツ国際平和村支援「LOVEPEACEチャリティコンサート~音楽と朗読の調べにのせて~」のチラシにも載せたように、

「平和な日本にあって、戦争という事実が過去のものとなった今、戦争の現実感はかなり薄れてきています。今、この瞬間、世界のどこかで紛争があり、罪のない子どもが傷ついているという事実に目を向けてもらうために、感性に訴えかける絵本や音楽のコンサートを開きたい。その想いがこの夏、ついに実現することとなりました。……」
 ヒロシマという過去の惨禍に心を痛めることはできても、現実問題として考えられるテーマとして今、この瞬間、大人たちの醜い争いのために失われ、傷つく罪のない子供たちがいることに目を向けてもらおうと思いました。 

 ちょうどこの頃に、母校の日本女子大学で、卒業生や地域の方に向けて開かれた生涯学習総合センターの「ドイツ歌曲を歌う」講座を受講し、ドイツ文学史の西山力也先生にお目にかかる機会がありました。 ドイツ人のカトリック司祭、アルフォンス・デーケン神父様の聖書講座に出るようになったのもこの頃で、コンサート開催に向けて自信がなくなった頃に何度も、神父様にお会いすることがあり、お祈りと励ましをいただきました。

 最初のチャリティコンサートは、松浦司教様とメールで連絡を取り合いながら、「地に平和」などのピース9の方に協力を得ることができました。しかし不思議なことに東京と大阪と地理的に離れているにも関わらず、どんな困難な状況に陥ることがあっても、司教様の愛が私をいつも、雄々しく奮いたたせてくださったのです。松浦司教様の霊名が聖ミカエルですが、私の妹も同じミカエラでした。ミカエルとは、マリア様を守るために闘う、鎧を着た大天使です。私はコンサートの準備をあたかも、大天使の羽が生えたような身軽さで進めることができたのです。 

 その翌年の七月末には私は四ツ谷にある麹町イグナチオ教会ヨセフホールで、二回目の東日本大震災復興支援被爆ピアノコンサートを開きました。この時、6月にリハーサルがあり、その時私は、コンサートの遂行に不安を感じ、司教様に本番で読み上げていただくためのメッセージをお願いしようと思いました。

 リハーサルの直後に私は、司教様に「メッセージを頂きたいので、大阪まで参ります」とメールしました。 そしてびっくりしたことにはその翌々日の朝、司教様から、
「司教会議が東京であり今、こちらに来ている。今日か明日のお昼休みなら時間があるからいらっしゃい。」           
と予想もしないお返事が来たのです。
とるものもとりあえず、とにかく江東区潮見というところにある中央協議会に生まれて初めて行きました。少し早く着いたので、隣にある潮見教会の聖堂でお祈りしてきました。そこにあった小さな碑を見て、潮見というところはかつて埋立地で、「蟻の町マリア」北原怜子さんがいたところと知りました。

 日本のカトリックの要である中央協議会の建物に入り、毅然とした聖域の空気に触れながら、応接間で司教様を待つことになりました。 

 やがて現れた司教様は昨晩、眠れなかったのか険しい目が充血していらっしゃいました。しかし、よく見るとハンサムなこと!ミーハーなおば様が騒ぐ訳がわかりました。
 俳優の二谷英明よりずっとハンサムで、クールな目元や漂うオーラは、濃縮されたミントのようでした。司教様は、今は、大阪の補佐司教でいらっしゃいますが、以前は名古屋教区司祭だったそうです。そういえば、織田信長のような切れのある目でした。もしかしたら、戦国の世に生きた名武将が、司教様の中で聖ミカエラとして生まれ変わったのかもしれません。

 メールで何度かやりとりしているとはいえ、初対面の私に対して、司教様はほとんどニコリともせず、私の話に聞き入ってくださいました。私も、聖なるもの、崇高なものに対する緊張感もありましたが、時折、私の真面目なジョークに笑ってくださって、安心しました。また、ピース9の会を設立し、同じカトリックの内外部でも非難があるでしょうに、日本の、世界の平和を守るために身をもって立ち上がり、私たちのために体を張って先鞭を取られている姿に感動いたしました。
 結局、メッセージはプログラムの都合上、頂かないことになりましたが、私は司教様に直々にお目にかかれることができ、本当に光栄でした。こんなこと一生にもう二度とないことでしょう。 

 さて、私は七月のコンサートが無事に終わって親しい友人たち数人と、8月の終戦記念日に、自分たちのピース9の会Maria Arts & Music PEACE9を結成しました。その後11月に同じ麹町教会のマリア聖堂で、ピース9の関連で、「君が代と日の丸」に関する司教様の講演会があるというニュースをもらい、皆で聴きに行きました。

 司教様は講演の直前に、東北の被災地で『いますぐ原発の廃止を』発した日本司教団の特別臨時総会があり、それが終わったその足で東京にいらっしゃいました。そして私がそこに見たのはあの、凛々しい司教様ではなく、被災者の苦しみを身に受けて、貧しく小さくなったイエス様だったのです。
 ところが、講演が始まると司教様は、雄弁に力強く、聖書のメッセージを背景に、私たちに、こちら東京ではあまり問題にされていない君が代の問題をわかりやすく解き明かしてくださいました。
 司教様は、インドのマハトマ・ガンジーをとても尊敬しているそうです。司教様の御本に、こう書いていらっしゃいます。
「ガンジーはまるでハンマーで壁を破るように強烈な言葉でガツンとやります。彼の状態に欠けた部分ができ、そこからいやがおうでも(殺された)相手の子どもが見えてしまうのです。(中略)イエスはやはり強烈な言葉でガツンとやり、彼の状態に穴を開けました。自分しか見えない生き方から目を上げて、他者にかかわる行き方へと転換していくことこそ、最も大切なことだと伝えたかったのでしょう」(「報復ではなく、いのちの連鎖へ 『武器なき世界の実現を』」(女子パウロ会)の「平和をきずく人になろう/夢に駆ける」より)
 祈りに於いては貧しく、愛することにおいてはひけらかさず、しかし、ただひたすら狭き門をくぐりぬけ、聖なる光に照らされた神の道を歩んでいらっしゃることを感じました。
 武器ではなく、祈りによって平和を伝え、守り抜きたい、という司教様の祈りが私たち一人一人にも広がりますように!