2012年10月4日木曜日

「比喩的言語・象徴的言語としての手話」




私は以前、在籍していた教会で、教会学校のリーダーを10年務めましたが、その時子どもミサの本の中に次のような聖歌がありました。

もしも、キリストに結ばれているなら

それは、キリストの命を生きるもの

だから、キリストと同じ血を受けて

必ず、キリストの復活にも与る

罪のからだが滅ぼされ 罪から解かれ

死者の中から生かされた命に生きる

(「あたらしい人になるように」ローマ6章)

この歌詞の「罪のからだ」という言葉は、若かった私にはまったく無縁といっていいほどでした。しかし年をとるにつれて(というのもまだ早いかもしれませんが)、生きていく事の難しさを感じるようになり、その度に教会のミサだけでなく、茶道でもペン習字道でも、声楽でも、ヨガでもなんでも、イエス様の教えてくださった「道(タオ)」に連なるもので心を静めてきました。しかし「道」を極めようとすればするほど、日常生活の雑多な動作のために、身体の「道」がずれて、痛み出してしまうということも起こりました。しかし、私たちには「道」なくしては生きていくことはできませんから、永遠に「道」を整え続ける運命を持つのが人間です。

ところで私は、ごミサの典礼が時には全く、心のないままに文字を追っていることがあります。頭を切り換え、何度も読み返してみますが、抽象的な言葉は理性では何のことやらさっぱり分からず、カタカナの字面を並べただけの文章なら、暗号と思い、読み飛ばしてしまうわけです。

 友人に教会の手話通訳をしている人がいて一時期、教わっていましたが、通訳ではこういった文字の羅列も丁寧に訳していきます。しかし、お祈りを全身全霊で表現していきますから、言葉のイメージが口に出すよりも遥かに、豊かになり、想像力の翼がはためきます。彼女と、典礼手話も「道」のひとつかもしれないねと話したことがありました。神様の言葉を、写経のように自分の手で表現していくからです。

一方で、聖書の中の「神は愛である」とか心象的なメッセージは、手話にすると嘘っぽくなってしまいます。だから難しいのですが、逆に「グロリア」とか「アレルヤ」「ホザンナ」などのラテン語は特に、手話を加えた方が意味もわかり、生き生きしてきます。

さて、日本には、「秘すれば花」と言われるように、あまりオーバーに表現しない方がいいという文化がありますね。そういった日本的な表現を西洋から来たキリスト教の神概念とどちらがいいというのではなく、「ミックスジュース」のように味わい、受け止めるというのが現代の日本のミサに求められる姿勢かもしれません

先日、前教皇ヨハネ・パウロ二世がインタビューに応じた「希望の扉を開く」(同朋舎出版)という本に、手話を象徴的言語として捉えて解釈してみてですが、こう書いてありました。

(現代思想は、人間についてのより充実した発見をするという著しい進歩を見せたのは)比喩的言語と象徴的言語との価値を認めた点です。(中略)新しい角度からの人間観、世界観が示されています。実証主義がこの、より全体的な理解から私たちを遠ざけたり、ある意味では締出したりすればするほど、象徴的な表現の意味を探る解釈学は、その分、より全体的な理解を再発見させ、さらにはある仕方でそれを深めさせさえするのです。だからといって、神と信仰の諸真理とに関する真の概念を言語で表現する能力が理性はないなどと言うつもりのないことはもちろんです。

祈りにはミサの中で共に祈る等身大のものと、一人で神との対話する時の小さな心の映像を持つものと二つありますが、舞踊家ほどではないにしても、子どもの頃にからだ全体で祈る機会が少なかった日本人には、改めて身体で祈ることを通して神を知る必要があるのかもしれません。

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