2012年10月11日木曜日

「ペンダコの心」

天高く馬超える季節になりました。その後、いかがお過ごしでいらっしゃいますか?
ところで9月初めに頂いたメールのお返事をしようと思いつつ、早くもひと月以上が経ってしまいました。
というのはS様のメッセージの行間に、私はいくつもの言葉を埋め込みたくなってしまったからです。
ちょっとお返事するぐらいなら、パソコンのキーボードを叩くだけで済みますが、心を込めて書く場合はやはり、紙にペン書きですね。
なお、今回のお手紙はノートに書いたものをパソコンに入力しています。あしからず、ご了承ください。 

ところで私は子どもの頃から、「かく」―「描く、書く」といった作業を通して、ひたすら勉強してきました。また、疲れた時に頭や腕を「掻く」といった動作も含まれています。

最近は、エッセイの発想が浮かばず、またペンダコが痛みますので、しばらく執筆をお休みしていました。しかしある時、右手の薬指の爪の脇に、「温湿布」を小さく切って貼ってみましたら、それがとても気持ちよかったのです。そのまま、鍼灸師のところに行きましたら、「ここの経絡があなたの心臓とつながっている」と言われました。

さらに音楽療法を受けている時に、ペンダコの所を意識して喋っていると自分や相手の喋っている内容がよくわかるので、そこが言語脳とつながっている可能性があるのではないかと気づきました。
そうこうしている内に、それからしばらくしてやっと、文章がまた書けるようになりました。
 
自分の心を「書く」ことで表現することのきっかけはもう一つあります。
数年前にスポーツクラブ内のフリータイムレッスンでやっていた「アート書道」にふらりと加わわり、書に真剣に取り組んでいる方々の姿勢を見て、自分もマザー・テレサの「大切なのは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです」という言葉を書にしたためてみました。

そして、それを麹町教会の女子パウロ会の売店のシスターのところに持っていきましたら、私が特に心して書いた「心」という文字にシスターの意識が集中したのです。我ながら、書の力ってすごい!と思いました。そしてその書を、シスターは売店のファクス機の横に設置してくださったのです。 

それ以来、松浦司教様の出された本とか、ヨハネ・パウロ二世の本とか、崇高な方々のちょっと読んでもわからない文章を、読むだけでなくノートに「写経」してみたら、神様の心が入ってくることがわかりました。しかしそれらの言葉は、私を束縛することはなく、栄光に至る放縦ではない、真の自由をくださる天使の羽だったのです。

 最近はパソコンや携帯の普及で、ペンダコを「テコ」にして文章表現しなくなっていますが、少なくとも私たちの世代以上は、ペンで書くといった体の歴史が染みついていますので、私は聖書の講習会は、神父様のお話を聴いたり、読んだり、歌ったり、黙想するだけでなく、聖書を「書く」といったものもあったらいいと思っています。

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