2010年6月16日水曜日

私のボランティア論


天に宝を積むという言葉があります。ボランティア活動(善行)により、徳を積むということです。何か悪いことをしたからではありません。仏教では罪の償いとしてボランティアをするそうですが、既にミサによって贖われることを前提とするキリスト教は違います。なぜなら罰としてのボランティアなら、人は決して自主性を持って行うことはないでしょうし、喜びのうちにボランティアするマザー・テレサの笑顔の意味はわからないと思います。
「あなた、ボランティアをする人」「私、しない人」という二分されたボランティア意識が日本にあります。これはおかしいと思います。一人ひとりが奉仕活動なり、募金なり、一日100円分でも奉仕する義務があれば、停滞した世の中に少しでもさざ波が立つかもしれませんのに。でも、それを法律として義務付けるのも間違っていますね。
聖書に基づいた思想が、一人一人の中に根付いていれば、誰かがボランティアをすれば、自分も自分の「できること」でボランティアをしてみようという自然な流れ場できれば、いちいちPR活動をしなくてもすみます。PRに費やす時間とお金だけがかかる世の中っておかしいと思います。
ボランティア活動なら、時間にある程度、縛られずにすみますし、肩肘張ってやらなければという犠牲の押しつけもありません。休み休み、どこかで休息場所があるのがいいでしょうね。
真の使命感というのは、自らの内なる力に密接に結びつくものです。自分にできることから、できないことでも誰かをサポートしながらできる活動はたくさんあるはずです。もちろん、ボランティアをしているうちに自分の使命を見出し、それが職業に結びつく人もいます。
私の場合、どうしようもない心の鬱屈が、シャンティ国際ボランティア会の絵本ボランティアをしてみたら、ふぃっと取れました。家庭の事情で就職ができない今、社会に取り残される不安から救ってくれるのも、チャリティコンサートの企画や訪問コンサート活動なのです。月に一回の日曜日には、外国人の子弟のためのサンデースクールもやっています。
その上、アムネスティ・インターナショナルから、フェアトレード商品を購入しています。それは、聴覚障害者である自分に対して、かけられたあらゆる中傷のため、かけられた冤罪を払拭したいからです。
実は3才の時から20歳過ぎまで、長年装用していた補聴器のため、騒音性難聴が多少残っており、そのため発声が悪くなることがあるのです。それを克服するために声楽のトレーニングを始めたのです。
それなのに、どういうわけか不倫もしたことがないのに、ひどい声だ、厭らしい声だ、と誤解を受けてしまい、精神的にショックを受けて失語症になったことさえあります。
私はわりに聞きとりがいいので、時に手話通訳は必要ではありませんが、大きな部屋での離れた人の声などはわかりづらいので、通訳がついていると話がわかって助かることがあります。
でも、手話通訳がいると聴き取り能力が劣ってしまいます。
人間の脳に上る血液の量は、人間皆な、同じだそうです。ですから通訳がいると手話を見ようとして、視覚の方に血液がたくさん行くのだそうです。その分、聴覚がどうしても鈍ります。
 耳が不自由だということを隠して、コミュニケーションをしても相手の人は全く気が付きません。相手は私の耳に自分の声を投げかけることに集中しているためその分、私の聴覚がとても冴えてくるからです。情報を知りたいという思いと、相手の声を直接、聞いてコミュニケーションをしたいという想いの狭間でいつも、心は揺れ動いています。
ボランティアするのもされるのも、難しいですが、聴こえない人にはこう対応する、見えない人にはこう、脚の悪いひとには、という十羽ひとからげのボランティアではなく、一人ひとりが友として関わり合える相手に巡り合えることが真のボランティアなのだと思います。一人に最低一人、持ちつ持たれることのできるそういう友がいるのが一番いいのではないでしょうか?