2013年4月1日月曜日

桜と母マリア

 

   今年もまた、桜の季節がやってきました。復活祭より一足先にお花見シーズンが始まりますが、何年か前には節制を勧める聖週間とピッタリ重なったこともあったように記憶しています。お花見の席で浮かれる人たちを尻目に、大斎するか小斎するか迷う度に何故、日本にキリスト教が伝来したのかと懐疑的になったこともありました。

   今年は復活祭の朝に2週間近く咲き続けた麻布教会敷地内の染井吉野が満開になり、ミサが終わった頃に散り始めて可愛らしい若葉が萌え出てきました。気のせいか最近、やっと日本の四季の移り変わりと教会暦が一致してきたように思います。 

   さて今年も青山霊園を散策しましたが、その時、歩いているのはなぜか私ではなく、娘の私を亡くした母・森美保子でした。娘を亡くした母の気持ではどうだったのでしょうか、それは寂しいというよりは、半人前の母と私が交互に生きているという不思議な時間でした。
   母と私にはそれぞれ、いつまでも一人前になれないもどかしさがありましたが、そういえばもうすぐ母の命日です。満開の桜と散りかかる桜吹雪とうっすらと色づき始めた桜色のカーペットの中を10分以上、歩いていましたらなぜか涙がポロポロ出てきました。  
 子どもの頃から兄や妹に「峰ちゃんはよく泣くから…」とからかわれていましたがある時、自分の泣き顔を鏡で見たら、泣いている時の母にそっくりなので、今では涙が出ると鏡を見ています。そうして母にもう一度、出会うのです。
   母は私が泣くと、涙でグチュグチュになった小さなティッシュペーパーでさらに私の鼻の周りを拭いて、一緒に泣いてくれたことがありました。実は私は自分で云うのも可笑しいのですが、自分の涙が好きなので、鼻から唇にしたたり落ちるのを舐めたりするのです。なぜかってそれは母と同じA型の血から体内分離されて出来たものだからです。 

   ところで今、国立西洋美術館でラファエロ展が開催されており、そのポスターのイエス様を抱いていらっしゃるマリア様のお顔は、穏やかな涙腺を感じます。

   われらの母なる 恵みのマリア  
 御許に集えば 人みな楽し  
 涙の谷にも 花咲き乱れる
   香りもゆかしく 喜び満たす
                       (カトリック聖歌集307番) 

 私は昔、ブツブツお祈りするのが苦手で、聖歌集の緩やかなメロディーのある日本語のマリア様の歌を思いつくままに歌っていました。こんなロザリオの祈りもあっていいのではないかと思います。ラファエロのマリア様はワインレッドですが、日本のマリア様は世知辛い世にあっても、優しい桜色のお衣が似合う人であってほしいです。

カルペンティール神父の「復活のキリスト」―かくれんぼする神様―

 数年前に麻布教会から歩いて10分ぐらいのところにある、国立新美術館で「国展」を初めて観ました。国展では全国各地から集まった素晴らしい油絵の大作が上にも下にも所狭と掛けられており、私は学生時代の美術室の匂いさえ懐かしく思い出されて、ただ溜息をつくしかありませんでした。

 しかし半分以上見終わったところで私は、左隅の部屋で四方に絵で囲まれた一つの小品を見つけたのですが、私はその作品の作者に見覚えがありました。日曜日のミサの典礼でお目にかかっている、A:カルペンティーノ神父様の彩色版画でした。そしてその絵を見た瞬間、魂の奥底から「いのちの泉」が湧き出でてきて疲れ切った感性の目が癒されたのです。

 ところで私は、小学校の6年間は渋谷教会に通っていました。カルペンティーノ神父様が居られるドミニコ会が経営している教会です。当時、私はどこの子供にでもあると思いますが、視覚の上である超感覚を持っていました。しかし成長するに従い、他の感覚が発達していく過程で、それは茨(いばら)の茂みの中に隠れ、忘れ去られてしまいました。

 ところが昨年、臨床美術士の資格を取得したのですが、その時に久しぶりに大脳生理学の勉強をしまして、脳の視覚領域図を見てハッと思いだしたのです。人間は情報の80%を視覚から得ていると言われていますが、教会建築や聖堂の装飾を通して私たちは「神のご臨在」をどこまで感じているのでしょうか?

 

 前教皇ヨハネ・パウロⅡ世は『希望の扉を開く』(同朋社出版)の中で、「神との直接体 験は、神と「顔と顔を合わせて(コリント1312)知ることでも、神を神としてあるがままに知ることでもありません」と述べています。

 また教皇様によれば、神様は「かくれんぼ」がお好きだそうですが、「神の顔を直視しようとして「後ろ姿」(出エジプト3323)しか見ることができなかったモーセ」と同じように、私も麻布教会の聖堂で後ろを振り返ってみました。そしてあのカルペンティーノ神父様のステンドグラスがそこにもあるのを見つけ、感動したのです。

 つまり、私のあの超感覚だと思っていたのは私の中に内在する「神のまなざし」だったのです。麻布教会聖堂は、私たちの魂の中に神を見出す不思議な玉手箱なのです。

子どもの頃から耳の不自由な私にとって、教会聖堂は神と出会う不思議な隠し絵が沢山ある場所でした。教会ではお祈りしたり歌をうたったりするだけでなく、一度限りの展覧会よりも、何回も素晴らしい美術作品を見る事ができるのです。

さあ、皆さんもミサのない時に聖堂を訪ねて、神探しをしてみませんか。