2011年9月26日月曜日

《第四章:憲法九条を世界遺産に》より



◆ 言葉の持つ力と危うさ
《中沢は言葉の持つ力を危うさについて、次のように述べています。上手な表現というのは、そういうパターンに揺さぶりをかける力を持っている、と。テロというのは最終的な、しかも極端な表現で、そこたどりつくまで、じつはもっと広くて大きないくつもの選択肢があった。人間はいつも最終的に出てくる表現に気持ちがとらわれてしまい、とくにテロだとか戦争だとかいうと、もうそこだけに関心が集中して、裾野の広さが見えなくなってしまう、と》


 さて、私たち人間は、言葉によって意識が変わり、それによって戦争が起きたりもします。聴こえなかった自分には考えられなかったことが、聴者の世界では起こりうるのだと、聴こえるようになって初めて、実感しています。聴覚や視覚などを通して、外の世界に繋がることで、マインド・コントロールが起こるわけです。 


 その点で聴覚障害者の音の世界は、静寂であり、平和そのものといっていいかもしれません。しかし私たちに、神様から与えられた五感が、争いや分裂を引き起こすために使われるのでしたら、それはかつて聴こえなかった自分にとっては何よりも悲しいことと思います。

 私たちが自由にものを見たり聞いたり、考えたりするためには、言論の自由だけでなく、感性の領域においても、つまりそれは個人の感覚の自由であるわけですが、守られなければいけないと思います。
《芸人の太田は、中沢の発言を受けて、たとえ矛盾があったり、失敗したりしても、たくさんの自分の言葉を使って話してほしいと言っています。その人間が見えなくなるキャッチフレーズより、誰がそれを言っているのかが大事なんだそうです。言葉にはすごく力があると同時に非常に危ういものだということを、よくわかっているから、と》

 私もそうだと思います。断片的な言葉の効果もあると思いますが、本当に必要なことは、身をつくし、魂をつくして伝えるべきです。同じ言葉を繰り返すだけでも効果はないでしょう。くどくなってしまいますし。

 それだけにどこから題材を持って来るか、視野を狭くしないように、要領を得た話ができるようにしないといけないと思います。

 それに、日本語は言いたい事を最後に持ってきますから、じりじりと結論を出そうとしません。それが日本人を忍耐強くしているかもしれませんけど、今の日本の政治のように、原発問題に関しても煮え切らないということが起こります。最初から結論として、「原発を無くす」というただ一つの目標を掲げて付き進めばいいのに、と思います。

◆ 「不戦」と「非戦」の違い
《中沢曰く、日本国憲法は、普通の国の憲法とは違う。とくに九条があることによって、普通になれないそうです。それは国家が自分の中に矛盾した原理を据えているからです。だからそれはある意味で、修道院に似ています。修道院のようなものがあると、人間は、普通ではできないけれど、人間には崇高なことに取り組む可能性もまだあるんだと感じることができる。そういう場所があることは、すごく大事なことです、と


  私たち日本人は日本国憲法のお陰で、他の国に比べれば、皆、修道士、修道女のように神の恩恵を受けながら、聖域に籠らずにも平和な時間を有り余るほど享受しているのかもしれません。 ありがたいことだと思います。

 
◆ 人間の愚かさを知るための世界遺産
《中沢が、なぜ人は、神社に落書きしたくなるのかというと、もともと神社という建物が日本にはなかったからじゃないでしょうかと言っています。日本人は、神様をまつるのに建物を必要としなかった。山とか木とか、その向こうにあって見えないもの、それを神様として考えていて、そこには手をつけなかった。ところが、神社というものがつくられると、神とイエスのような関係になって、ここには何か悪戯をしたくなるわけだ、と》

 もし今の日本政府が憲法九条に手を付けたら、「ソドムゴムラよりももっと重い罪」(聖書より)が日本中を襲うような気がします。
 十戒という厳しい掟を命がけで守り通した四千年の歴史の神様がどんなにお怒りになることかと思います。日本には日本の神様がいると嘯くけれど、今はもう鎖国の時代じゃないのです。洋館に住み、洋服を着て、洋食を食べている日本人がキリスト教を切り離しては生活できない時代なのです。日本のよさを認めながら、西洋の文化とうまく融解させることは、神概念にも同じことがいえると思います。
 汚れを清めるために宗教があるわけですから、汚れ過ぎないように神社やお寺があるのは大切なことです。悪戯したくなるのは、日本の神社や仏閣の神は沈黙しているだけで、厳格だが、憐れみ深い人格を持った神がいないからでしょうか。キリスト教には司祭という形を借りて、それが残っていると思います。

《イスラム教のタリバーンがバーミャン(アフガニスタン、バーミャン渓谷の古代の石窟仏教寺院。世界遺産に指定。2001年3月、偶像崇拝を否定するイスラム教・タリバーンによって、渓谷の二体の大仏が破壊された)の仏像を爆破して、困ったことをしたものだなと思う反面、イスラム教の考え方からすると、仏像というのは、落書きみたいなものですから、ただ落書きを消しただけという見方もできる、と中沢は言っている》
 
 仏像を壊してしまう人は、脳の使い方が左右対称に違うのかもしれないですね。木を見る西洋人とと森を見る日本人の論理が、タリバーンも同様に、仏像を壊したくてたまらなくなるということが起きるのでしょう。人間に眼が二つある限り、目に見えるものは二元論に至り、対立の対象になるのでしょうか。インドヨーガの第三のチャクラの目で世界を見なければならないと思います。

(続く)











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