2011年9月24日土曜日

《第二章:奇跡の日本国憲法》より



 ◆ 憲法九条は掛け値なく面白い
《中沢新一の話によると、憲法九条は修道院みたいなんだそうです。村はずれの丘の上に建っているというだけで、人の心は堕落しないでいられる。そういうものがあったほうが、人間の世界は間違いに陥らないでいられるんでしょう、というわけです》

 たしかに、教会や乃木坂の女子パウロ修道院の周りには、聖域から漂ってくる清浄感というものはあるけれど、麹町教会のある四ツ谷駅周辺のように、教会を横目に眺めつつ、決して与(くみ)しないところもあるかもしれません。教会でお祈りしないで、買い物をするとたまに何か、とばっちりに出会ったような気がするのです。イエス様のそばにいながら、決してその輪の中に入らないから、却ってつまずいてしまうのかな、と思います。それもその地域の特性かもしれないけれど。

《中沢はさらに修道院では、普通の人たちにはできない、血の滲むような努力をしている人たちがいる。断食をしたり、エゴを乗り越えて、利他心に生きようとしてがんばっている人たちがいる。現実はともあれ、とにかく立派な生き方をしようとしている人たちがいて、理想や夢が地上に自分の居場所を見いだしている場所がある、と言っている。 ふと見上げた丘に、そういうことをしている人たちがいるというだけで、世界の姿は変わるんですよ、と》

 日本の修道院は、まだヨーロッパの修道院のように歴史が長くないから周囲の土地に影響を与えるだけの力はないでしょう。しかし、私たち一般のカトリック信徒には、街の人のように見上げるのは、建物だけではなく、たくさんのシンボルがあります。聖書だけでなく、教会建築や修道院、司祭や修道士などの聖職者、聖人像、教会の奉仕活動、そして特にミサの中に見られる様々な聖変化にその都度、刺激を受け、信仰が育つのだと思います。

◆ 日本にたった一つ遺された拠り所
《中沢によると、日本国憲法というのは、日本人のドリームタイムなんだそうです。ドリームタイムというのは、オーストラリアのアボリジニが、自分たちの根源の場所として確保している場所のこと。そういう場所があることを知って、そこに心を向けることで、世界は正しい方向に向かっていける、というわけです》

 ところで、私はオーストラリアン・ワイルドフラワーもやっていますので、そのドリームタイムという感覚は、自然に還るというか、何となくわかります。でも、カトリックの信仰は、それとは違うと思うのです。もっと自分が天上と繋がり、自分の前途に道が開かれるというイメージがあり、そこに踏み出せるものだという感じがします。

《さらに中沢は述べている。日本国憲法は、ことばでできた日本人のドリームタイムだと。このことばでできたドリームタイムによって、日本人は今まで精神の方向づけを行ってこられたのだそうです》


つまり、基本的にドリームタイムは、全ての人が神に立ち返っていくところなんですね。


《今の日本の非常時に憲法は沈黙するばかりだそうです。いつだって神々は沈黙する。イエス・キリストだって十字架の上で、このまま私を見殺しにするんですか<と神に向かって訴えたけれど、神は沈黙したままでした、と非クリスチャンの中沢は言っています》

 しかし、キリスト教には、この沈黙の後に復活があるのではないですか。大震災後に東北の人が持っている底力とはまた違う、立ち上がろうとする力が、私たちには自らあるのでなく、与えられて生かされるのだ、と思います。

 太田さんが言った、世界遺産という言葉は当たっていると思います。一度、破壊されたら再構築は不可能ですし。大切なものを"守る“力は母性を持つ女性の領域ですから、女性たちがもっと立ち上がらないといけないと思います。

(続く)

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