2011年9月26日月曜日

《第四章:憲法九条を世界遺産に》(続き)



◆ 日本国憲法は環太平洋的思想
《太田は語っています。天皇制も憲法も常に議論の対象になるのは、そういう本質が似ているからなのかもしれないと。そして憲法九条に関して言えば、もしかすると日本人はまた人を殺すかもしれないという、自分への疑いがそこにある、と》

 そういう意味では、日本国憲法は聖書と同じだと思います。クリスチャンは十字架を称賛しますが、それほど残酷な宗教はないでしょう。しかし、それを乗り越える愛が聖書にはあるのです。

◆ 右翼でも左翼でもない「中道」
《中沢が、太田さんが日本国憲法について最近、考えたり、書いたりしていることを見ると、これは右翼が怒るなと思うところがあるそうです。じゃあそれは左翼の論理かというと、それも違う。たぶんこれが中道なんだろう。中道だから、右にも左にもいいなと言われる。あるいは両方から文句言われる、と》

 
 
宗教が混在している日本に於いて、中道を示すものが無くなると困ります。世界中が認める、神の傑作はむやみに作り変えてはいけないですね。





◆ 僕が芸人でいる理由
《中沢はさらに次のように言っています。芸術と政治が合体したときに生まれた最大の失敗作は、ナチだと。ナチズムの思想は、人間が人間を超えていこうとした。非人間的なものも呑みこんで、人間を前進させるんだぞという考えが、現実の政治とつながっていったとき、とてつもない怪物が生まれた。それ以来、政治の中に芸術や芸術的な思想を結びつけるのは危険だということで、ヨーロッパでは政治と芸術を分離させた、と。
 ところが、日本国憲法は、ナチズムとは逆のことを実行してきたそうです。この憲法自体、現実には存在し得ないことを語ろうとしているわけですから、芸術に近いものだとも言えますが、それを日本は政治の原理にしようとしてきた、と






 ナチズムと日本国憲法が、左右対称というのは面白いと思います。脳の世界は右が天国、左が悪魔と行ったりするけれど、お国が違えばそれも変わるのですね。神は左右上下でなく、御言葉によるイメージの世界が作り上げるのです。

《中沢は、世界遺産という言い方がとても気に入っているそうです。政治と芸術的な思想の結合という、この奇蹟的なシステムを、リサイクルして再活用するために、そのスローガンはとてもすてきだ、と






 日本国憲法は神の理念と言葉が一つになった、美の遺産なのだと思います。
心を伝えるのは難しいです。言葉はいつも空まわりしてしまう。それができたのは、敗戦国という極限状態にあったからかもしれません。ハングリー精神から生まれる美は美しいですね。





◆ 日本に蔓延する感受性の欠如
《太田が、初めて画集で「アッツ島玉砕」を見たとき、衝撃的を受けたそうです。まさに地獄絵図と言っていいぐらい。 あの絵を戦意高揚の絵だとして、藤田を戦犯だと言った人たちの感受性とは、一体何なのだろうと太田は言っています。あの絵からは、戦争はもう嫌だということしか伝わってこない。なのに、いまだに日本の美術界がそれを封印しているのは、彼を戦犯だと言った人たちと同じ感性だということじゃないですか、と》

 キリスト教の歴史と同じ、日本の文部省と同じですね。日本文化「は隠す文化ではあるが、このように戦争の事実を隠すのが公然と行われてきたのです。このことが、日本の芸術や人間教育を閉塞させしまっていますね。

◆ 合作としての表現
《太田によれば、クンデラが(人間の)仕草について、「この世には、個人の数より仕草の数のほうが少ないことは明白である。そこでわれわれは不快な結論に導かれる。つまり、仕草のほうが個人そのものより個性的なのだ」、あるいは「仕草のほうこそ、われわれを利用しているのだ。われわれは仕草の道具であり、操り人形であり、化身である。」と表現していたそうです。(集英社文庫『不滅』菅野昭正訳 第一部「顔」より)。 太田らは、言葉を武器にして表うが強いんじゃないかと。では、どうすれば、仕草が言葉を乗り越えられるのか、と言っています》

 手話は仕草が個人を超えていると思います。言葉がなければ、人間としての感覚がなくなるが、言葉が個人を超えてしまうこともあるのです。仕草が言葉を引っ張るのか、だとしたら、手話は言葉と限りなく引き出していく。私は逆だと思っていました。





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