2011年9月26日月曜日

《第三章:戦争を発動させないための文化》より



◆  思想表現としての芸
《中沢曰く、たとえば、ピカソのゲルニカは、スペインの内戦を写実的に描くのではなく、ピカソが頭の中で見たものに置き換えたほうが、むしろストレートに訴えかけてくるということがあると。それがピカソの芸だとすると、原稿でもテレビでも、中沢はそのへんを省いてストレートな発言ばかりしているそうです》

 私も、喋る方がずっと楽だということはあるかもしれません。でも、それではいつの間にか立ち消えになってしまいます。ただ、喋り続けて同じ事を喋っている自分に気付いたら、それが自分のことば(アート)になると思うので、文章にしています。
 逆に、ノーベル化学賞を受賞した小柴昌俊さんのように、インスピレーションが頭に浮かんだら、端的にでもメモることも大切ですね。

◆  落語の表現から学ぶもの
《中沢は、『国家の品格』(藤原正彦・新潮新書)を読むと、今の日本人は昔の日本人が持っていた美しい武士道精神を見失いつつあるそうです。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』は、江戸末期のころの幕府の侍たちは、長い鎖国の中でみんな平和ボケしていて、その武士道精神を失ってしまっていたというニュアンスで書かれています。そこから、坂本竜馬や高杉晋作のような、骨のある武士道を持った日本人が下から出てきて明治維新を起こしたそうです》

 私の遠縁に当たる、後藤新平も同じだったのだろうか。氏もやはり明治維新で功労を果たし、華族の称号を得ました。
 江戸時代には安場一平さん、これも何世代か前のグランドファザーですが、剣の名手であの有名な「赤穂浪士」で大石内蔵助の切腹の時に介錯をしたほどであるから、かなりの武士道の達人だったのでしょう。
 私も茶道でお茶を点てる時、一期一会の精神を意識していますが、あまりにも簡素で完璧なものを追求し過ぎると、「切り捨てごめん」に近い境地になるときさえありますし、我ながら恐ろしいと思いますが、イエス様の十字架を信じていますから、殺意(?!)ではなく、「浄化」(purify)になるわけです。

◆ 武士道とお笑いの土壌は同じ
《武士道の話をもう一歩突き詰めると、お笑いと武士道の精神は同じところにあるということにたどり着く、と中沢は言っています。
 武士道では、自分の命に執着しないことが基本条件になっているそうです。戦国時代の武士は、いつも死と隣合わせに生きていた。これは芸術家に近い生き方だ。死と隣合わせにいると、自分の生きている世界を、いつも外から醒めた目で見ているということになる》

 死という問題は、一般的に日本人は避けて通っていきますが、私たちキリスト教徒はミサの中で、イエスキリストの死と復活を繰り返していることから、同じような心情に至ることはあると思います。

《太田が、人間生きてると、あいつ許せないと思うことがいっぱいあるが、そんなことも含めて古典落語は笑っちゃうと言っていました。
中沢がそれを受けて、低いところから人間を見ているから、世の中でぐんと上昇した人が落下していくのを見ても、何か優しいんだと。この人たちをそんなにいじめちゃいけないよねっていう視線がある、と

 許せないと思うことを赦し続けていくキリスト教とよく似ているかもしれません。 高みから私たちの行いを見ている神のような存在が、落語にはあったわけですね。
 可笑しさを意味することもある「もののあはれ」は憐れみ、楽しみ、喜びは栄光(グロリア)、賛美(ホザンナ)と通じるからでしょうか。
 危うさに行かないというのも「誘惑に陥らせず、悪からお救いください」という主の祈りとも通じます。
ならば、主の祈りは落語だったのか?!と思ってしまいました(笑)。

(続く)

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