2011年10月21日金曜日

「侍とキリスト教」を読んで



  来年の夏に東京・広尾にある都立中央図書館に行ったら、階段脇のフロアーにお勧めの新刊というコーナーがあって、「サムライとキリスト教」(ラモン・ビラロ 著 宇野和美 訳 平凡社)という本が目に入りました。 戦国時代に日本にキリスト教を伝えた、フランシスコ・ザビエルの布教を描いた歴史的小説です。
  私は、今はあまり小説を読まない方ですが、巻末にルイス・フォンテスの名前を見つけて、ちょっと読んでみようと言う気になりました。 このルイスという神父様は、フランシスコ・ザビエルの親戚だそうです。 私は来年の春にたまたま、麹町教会で福岡から来た、この神父さんのアニー・サリヴァンのヘレン・ケラー?とかいう講演会の看板を見つけ、飛び込みで聴きに行ったことがあったのです。
  その神父様は、ヘレンの話を引き合いに出して、私たちは聴覚によってではなく、視覚を通してでもなく、超越的な神を見いだすことができるということでした。 講演会の後の懇親会でちょっとお話できたこともあって、特に親しみを感じたわけではないのですがその後、五感に囚われていた感覚の鎖が解けたような気がしたので、神父様のことは忘れずに覚えていました。
  さて、「侍とキリスト教」は、フランシスコ・ザビエルと同じスペイン人が書いたもので、お話のあちこちにわざわざ、仏教とは、畳とは、刀とは、とかいったような説明の記述があり、外国人の目から見た日本が、小説の形式で書かれていて、ザビエルと同じイエズス会が経営する、麹町教会の神父様方もこんな風に日本を見ているのかなと思われて、興味深いものでした。
  何のためにキリスト教が日本に来たのか、なぜ多くの切支丹が改宗を迫られ、拷問に遭いながらも、信仰を捨てなかったのか、そこのところが私の長い間、疑問でした。  しかし時の日本は、戦国時代の真っ最中であり、私たちは様々な武勇伝に心を躍らせますが、それは氷山の一角で、その裏に悲惨な人生がいたるところに転がっていたのではないかと思うのです。 柳田國男の「遠野物語」(読んだことはないですが、ちょっとページの間を覗き見したことがあります)のような、暗い迷信と道徳観があったためではないでしょうか。 天上から光が射してくるような聖書の愛のメッセージは、たとえこの地上で命を永らえても、と思うほど尊いものだったのです。
  大日如来と間違えて、キリスト教を伝えてしまった、フランシスコ・ザビエルですが、彼が多神教の日本人に伝えようとした、唯一の神とは何か、それを伝えるのには不十分で、この作品は名作とは言えません。 しかし、フランシスコ・ザビエル自身が見た日本というものをそのまま感じ取る事ができます。
  この小説を読み終えた私は、父に言いました。「神様はあっちこっちに居るんじゃないのよ。右にいても、左にいても、上にいても下にいても、ただ一人なの。」
もともと仏教徒の父は「ふううん」と言い、「なるほど」と答えましたが、どこまでわかっているのやら。日本人にキリスト教を伝えるのは難しい、とつくづく思います。

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