2011年11月18日金曜日

君が代」で脳はどう呪縛されるか?



小学校の頃は、補聴器を装用した左耳しか聴こえず、家族との会話も学校の授業も、騒音や音楽、すべての音が左耳、すなわち右脳で聴いていました。 そのため、楽しい音楽も、単調な「君が代」も、右の音楽脳に入っていったため、格調高いと思っている人達とは、違った受け止め方をしていたと思います。
それが今になってやっとわかったという一つのきっかけが、先月、パイオニアという音響機器のメーカーが主催する、聴覚障害者向けの音楽会でした。 伊東光介さんという、被爆ピアノコンサートに何度か出演しているピアニストと、彼の友人の田中秀忠さんという、長唄・三味線の2人のホープが出演したのですが、そのコンサートで、私は振動装置の付いた椅子の上に座り、ヘッドフォンを装着して聴いていました。 音量ボリュームを自分で調節できますので、普段、聴こえにくい音までよく聴こえるので、いつも楽しみにしているのですが、今回は特に不思議な体験をしました。
プログラムの一つに、伊東さんと田中さんが、同じ曲を、最初は田中さんの三味線だけで、続いて伊東さんのピアノと共演するというのがあったのですが、三味線の音だけでなく、右側のヘッドフォンから、小気味良い三味線のシントンシャンという音が響いていました。しかし、そこへピアノの音が加わると、三味線の音もピアノと一緒になって、左耳すなわち、右脳側に優位転換してしまったのです。
これは、私たち兄妹三人が小学校の頃から診てもらっていた東京医科歯科大学耳鼻咽喉科の角田忠信教授の「日本人の脳」及び、「右脳と左脳」論をはっきり実証づけました。 この本は母の所有物でしたが、私は母の死後にそれを見つけて、日本女子大学研究生として研究論文を書き上げたのです。
それが「君が代」とどういった関わりがあるのか、といいますとつまり、左耳しか聴こえなかった私には、小学校6年間、それを歌い続けても、天皇に対する忠誠心は全く育たず、国粋主義にならないどころか、日本語を自由に音楽のように弄びながら話していました。 また、外国語の声楽曲に親しんでいるため、時には外国人と間違えられるほどの独自のキャラクターを持つ人間に成長していったのです。 そのため、私は特に言葉を抑圧する人間、戦争中の言葉で言えば、特高とかいったようなものを嫌っています。 ですから、今回の「君が代」斉唱を拒否しただけで教師を処分したという事実を知って、私は背筋が寒くなりました。

さて、聴こえにくくても好きな音楽に満たされていた脳は、洗脳された記憶はありません。 しかし後年40歳代になって、3歳時に薬の副作用で聴こえなくなった右耳が拓くという奇跡が起こったのですが、35年以上ほとんど閉じられていた耳がまず、経験したのは呪縛(マインド・コントロール)の罠だったのです。
カトリックやプロテスタントの公立学校の先生方が、「君が代」斉唱を拒否するという心理は、マインド・コントロールの恐ろしさを知っているためだろうというのが、遅ればせながら私にもわかってきました。
ほとんどの人間が右手でペンを持ち、文字を綴ります。 そのため、右側すなわち、左脳側に言葉が右脳よりもストレートに届くのだというのが一般の左右脳論です。 右脳すなわち、感情脳が絶対天皇制を拒絶しても、左脳からそれを強制的に変えてしまう可能性があるということなのでしょう。
ある絶対音感を持っているプロのバイオリニストの友人が、耳触りな発言が耐えがたくて、耳を塞ぎたくなることがあると言っていました。 そういう状況が続くと、心因性難聴にもなります。 私も実際何度か経験していますが、成人してから聴こえなくなるということがどんなに虚しくて、辛いことかは想像できます。
先週の土曜日に麹町教会で松浦悟郎司教様の、日の丸と「君が代」斉唱の強制についての講演会がありました。 松浦司教様は、トインビーの「文明は自らのうつろなもので滅びる」という言葉を引き合いに出されておられました。 人間の五感の中でも耳は感覚の受容器がかなりデリケートに出来ていますから、無意識に怯えさせて、感情を押し殺すようなことがあれば、私たちの身体が、精神的な面だけでなく、肉体を死に至らせ、人類を破滅に導いてしまうということを日本の政治家達は知ってほしいと思います。

今、私は来春、音楽療法の専門家と一緒にレクチャーコンサートを開くための準備を進めていますが、その一つとして、声楽のレッスンを今月から再開しました。 いつもながら、思うことですが、心をこめて歌うということの難しさを痛感しています。 また昔、好きだった歌が今は一部分のフレーズが嫌いになり、そこだけ口パクで歌ったりしてしまいます。聖歌にはあまりそういうことはないのですが、「歌う」ということは左右の耳を使う技術だとすれば、建前で済ませられると思ったら、構音器官が歪み、必ずどこかで反動は起こります。 私の場合は、歌う時だけでなくても、心が伴わないと、足が痛くなり、腕が痛くなり、ある時は胸が苦しくなり、ゲルニカのような心理状況にさえ陥ります。
「蛍の光」を拒否する人はいないでしょう。「仰げば尊し」も同じです。 今は、もっとフレッシュな送別の歌が卒業式で歌われています。 「君が代」が特定の個人を讃えるものであるから、天皇よりもっと崇高なものを知っている私たちには、曖昧な思想としか感じられないと言い切る自由がある方が、世界に誇れる日本の精神だと言えるのに、と思います。

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