2010年5月9日日曜日

パラドックスグルメ論


 メタボリックシンドロームという言葉もすっかり浸透しました。 コレステロールに包まれた、ぶよぶよの日本人が左を見ても右を見てもごまんといるけれど、お相撲さんに見慣れている私たちには、これが特に、異常な光景とは思わないのは恐ろしいことだと思います。
 実は私の兄も、子供の頃から太っていた時期が痩せていた時期と比べてかなりあります。お兄ちゃんは、たくさん食べてくれるからと、家族で外食した時など、自分たちの食べ残しを全部、廻していました。向こうも喜んでくれるから、そういった悪循環はかなり最近まで続いていたのです。こうして私たちは、そのために「太っている人」=「たくさん食べてくれる人」という固定したイメージを持ってしまいました。
 ところで、テレビのお料理番組やグルメ番組を見ていましたら、どうも食べ物とタレントのキャラクターを結びつけているような気がしました。 太ったタレントが、丸いでんぷん質のメニューを、自分の顔や体に見立てて食べたり、痩せた人はスティック状の野菜をふりかざしたり。 テレビのカメラワークもそんな風に動いているように感じます。
 ただ私が気にしているのは、そのイメージがいつも、飽食の方向性しかないことなのです。豚のように太った人がいたら豚を食べるとか、そういう卑しい食べ方をしているとしたら、自分も豚のようになりかねません。 逆の場合も同じです。人を食べ物でもって侮辱するなどもっての他です。
人間の脳が右脳と左脳と二つあれば、栄養学的な知識だけでなく、何か付随した感性的な遊び心が加わることがあるのは、いたしかたがありませんが、もっと品性があってもいいのではないかと思います。そのために西洋からテーブルマナーが伝わってきているのですし、日本の懐石の作法も、今では、雑誌に丁寧に紹介され、誰でも自然に学べるはずです。
欧米の映画の食事シーンを見ていると、どうやら話題と食べ物が密接に関連しているようです。黙々と食べるか、「あ・うん」で会話する日本人とはやはり文化の違いもあるのでしょうが、洋服だけでなく食生活ももっと洗練されてもいいはずです。
 びっくりしたのは、映画館で、残酷シーンを見ながらシュークリームを食べている人がいたことです。恐怖心を和らげるために甘いものを食べているのかしらと思いましたが、怖かったら、目をつむるなりそむけるなりすればいいでしょうに、もしこれが現実だったら、人が死にそうな場面でお菓子を食べられるでしょうか?
 私が子どもの頃は、教会で「アフリカやインドの貧しいお友達のために祈ってから食事をいただきましょうと言われたことがあります。貧しさと豊かさの対比。もし現実に目の前にそういう子どもがいたら、とてもむしゃむしゃと食べる気にはならないでしょう。逆に周囲が食べている場面で、病気でもないのに一人だけ断食するというのも苛酷な気がします。
 でも私は子どもの頃に、貧しい子どものために祈ったからといって食事がまずくなったという記憶がないのです。 むしろ一つ一つの料理をより深く味わうという秘蹟が起こり、僅かな食卓でも豊かな正餐に変えることはできるのではないでしょうか。聖書の中には、生活に密着した言葉がたくさん出てきます。
つまり、食べ物は昔から豊穣の実りとか、聖書の中にもオリーブや葡萄、パンや魚、小羊などたとえ話の題材としてはよく使われているのです。人間の生命線としての食物が、常に飢えとの戦いであった、イエス・キリストの生きた時代は、切実な問題として語られていますが、私たちにとっては食べ物に対するイメージは、スピリチュアルなメッセージよりも、かなり浅薄ものとして聞き流されているようです。
 続いてあるのは、いつか新幹線の京都駅で買い求めた懐石弁当についていた、「五観の偈(ごかんのげ)」という書きつけです。とても印象深かったので、捨てずに持って帰り、拡大コピーして友人などに配っています。

これは、主に禅宗において食事の前に唱えられる偈文です。僧侶の食事作法のひとつですが、道徳的普遍性の高い文章であるため禅に限らず多くの分野で引用されています。五観文、食事五観文、食事訓ともいうそうです。典拠は唐の南山大師道宣が著した『四分律行事鈔』。道元の著作『赴粥飯法』によって広く知られるようになりました(ウィキペディアより)。


【偈文】
 一には功の多少を計(はか)り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
 二には己が徳行(とくぎょう)の全欠を[と]忖(はか)つて供(く)に応(おう)ず。
 三には心を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす。
 四には正に良薬を事とすることは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり。
 五には成道(じょうどう)の為の故に今此(いまこ)の食(じき)を受く。

 【略訳】
 一つ目には、この食事が調うまでの多くの人々の働きに思いをいたします。
 二つ目には、この食事を頂くにあたって自分の行いが相応しいものであるかどうかを反省します。
 三つ目には、心を正しく保ち過った行いを避けるために、貪りの心を持たないことを誓います。
 四つ目には、この食事を、身体を養い力を得るための良薬として頂きます。
 五つ目には、この食事を、仏様の教えを正しく成し遂げるために頂きます。

 これらはどれ一つとっても、名文で素晴らしいと思いますが、私のような英語と日本語が頭の中で分裂しているような忙しい現代っ子には、カトリックの祈りの方が馴染みやすく、自分の力の及ばないところは、こうして聖霊の力を借りて食事をいただく必要があるかもしれません。


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