2015年5月15日金曜日

Bump into


数年前の話になりますが、ある日のお昼近く、階上のリビングルームで掃除機をかけていたときのことです。ふとテレビを見ましたら、俳優の阿部寛がルーブル美術館展の番宣をやっていました。そのとき私の内心から、
「阿部寛って、勉強したんだなぁ、元々雑誌のモデルさんだし、頭よくないと思ってたんだけど、すごいなあ…」と絶賛する声がしたのです(阿部さん、ごめんなさい)。
私は普段はあまりテレビを見ませんし、近所に芸能関係者がごまんといる街に住んでいますし自分は元々、教科書の音楽かクラシック派で、若い頃のようにポップスに興味がわきませんし、周囲に迎合しないためにも、マスコミにはほとんど関心を持たないようにしています。それに、カトリック教会にはカッコいい神父様や味わいのある神父様が沢山いるし、話は面白くて、厳しいけど優しいし。なにより無償の愛を下さるから…。その声は、亡くなった母が私の内面で生き続けており、母がいつも私の心の耳に囁きかけているからかもしれません。
さて、私が褒めたのか誰かわからないまま私は、いつものように掃除を終えると、前から買おうと思っていたアクリル絵の具を買いに出かけました。古くなって色が褪せてしまった麻のショールを試しに、黄色に染めてみようと思ったのです。お天気が良かったので散歩がてら、渋谷駅前のウエマツ画材店まで歩いていきました。
3階か4階に上がって、絵具売り場の前に立っていた時のことです。ふと振り向いてみるとなんと!今さっきテレビで見たご本人がレジで店員さんと、ご自分の描いたらしい抽象画を前に画材の相談をしているではないですか!私は我が目を疑いました。七頭身半以上はあるでしょうか、頭部が私の頭の上にあるかと思われるその姿は、まぎれもなく阿部本人でした。陳列棚の陰から何度も、イリュージョンのように現れた本物を確かめながら、テレビの画面と現実の違いまで認識しました。
さて私は、阿部寛に会ったことに驚いたのではなく、神の声が私自身で響いたのに感激したのです。私は神に出会った喜びに満たされました。相手は芸能人ですから、神の存在を否定することもできます。テレビを見た四〇分ぐらい後の出来事ですし、芸能人も人の子、阿部寛の中にもあの番宣を、本当に理解してくれる誰かに観てほしいという想いがあったのでしょう。
それからほどなくして私は、臨床美術士の資格を取得し、その間に京都造形芸術大学で学芸員資格も取りました。阿部寛だけがきっかけでなはありませんが、インターネットとスクーリングによる学習が主で、文書だけで記載された漢字の多い(京都だからか)の課題にそれることなくレポートを書かねばならず、対面式でない難しさもあってかなり厳しい1年間でした。その間ふと、あの阿部自身もこういった勉強をしたのではないか、学芸員資格も取ったのではないか、そうでなくてもチャラチャラしていると思っていたのが、NHKの美術番組のキュレーターを務めたのは、よほど努力したのではないか、と思うと頭が下がる思いがしました。
実は私は、有名人だけでなく偶然、人に会う確率が高い方だと思います。五年ほど前に習った英会話のイギリス人のメアリー先生が、こういうのを、“Bump into”というのだと教えてくれました。
でもそれらのすべては「誰彼に会いたいな」と具体的に願ったところで叶ったことはありません。そう思ったところで会う場合に大抵は、自分の家族です。私ではない、しかし私の中にある神様が私自身の想いを超えて、新たな出会いをくださるのです。そして、それらはネットでも何か事務的な手続きを経ることはありません。
あるのは、エッサイの芽も出ていないところの何かだけ。本能でも理性でもなく、道理もましてや言葉もない、しかし虚無でもないところ。それは重心と引力の引っ張りあうところなのか…。日々の祈りの賜物だとしたら、それはあったり、なかったりと気まぐれと思うならそれは神さまではなくて…。稲川圭三神父様は詩人のように、「初めも終わりもない永遠の始まりであるところの真実」と云い現わされています。私がどういった状況でもその声に耳を澄ませるのなら、その道のりがたとえ遠くてゴールが見えなくても、道に迷うことはないでしょう。
中学高校の校長であったアトンメントのフランシスコ会の勝野巌神父様の「みおしえの道」には、稲川神父様のお話よりも具体的過ぎるぐらいに書かれているようです。当時は耳が聴こえないために勝野神父様のお話は本当に馬の耳に念仏でしたが、ネコでも峰子には小判は見えるのです。今更ながらもう一度、読んで勝野神父様のお教えの素晴らしさを噛みしめています。
そして最近になって気づいたことですが、ペトロ勝野神父様の霊名は正式には、ペトロ・バプチスタ神父だそうです。あの江戸の二十六使徒殉教者の中の一人で、稲川圭三神父様もパウロ三木でした。この二人の聖人が伝えるメッセージには共通の真理が宿っているのかもしれません。

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