話はさかのぼって昨年の十二月、東京・外苑の東北芸術工科大学と京都造形芸術大学が作った「東京芸術学舎」でベネチアのビエンナーレ賞を受賞した日本画家、千住博先生氏の講演会がありました。「じぶん学」というシリーズの講座で、大脳生理学者の茂木健一郎と養老猛が続いた後で、とても楽しみにしていました。
学舎の講義室に現れた先生は、アートの大家とは思えないほど腰が低く元々、教職にある方ではないので、緊張しておられる様子でした。しかし、前面のスクリーンに自分の作品が大写しになると、回転椅子に座ったまま映像の方に向き直り、リラックスされたのでしょう。話が段々、ダイナミックになってきたのです。先生の話は絵画の題材だけにとどまらず、絵の中から飛び出し、グローバル化して宇宙レベルにまで広がっていきました。
私が十年以上前から親しくさせていただいている大友直人さんも指揮をされるというので、大枚はたいて観に行きました。本当のことを申し上げると、私のお小遣いでは3万円以上もするチケットは本当に無駄遣いでした。そこで私は、このオペラを観るためのバリュー(価値)を定めたのです。それは、
一、
カトリック正義と平和協議会「ピース9の会」のMaria Arts & Music PEACE9の一員としての使命を持って観る。
二、
翻訳でない、日本語のオペラを堪能し、イタリアやドイツオペラでは得られない魅力を充分に味わう。
というものでした。
一については、田園調布教会ピース9「地に平和」の冨澤由利子さんをお誘いしました。二については、母国語なので、喉がカラカラに乾くほど、歌が心に響きました。
このオペラは第二次世界大戦末期の鹿児島の知覧飛行場を舞台にした、反戦オペラで、明日には特攻隊として飛び立つことになる二つのカップルの悲恋で、三枝成彰が作曲したものです。
開演前の緞帳に、千住先生の波の絵がアニメになり、大写しになっていたのには驚きました。抑えの美学を利用した桜の木も大変、素晴らしく印象に残っています。
また、ジョン・健・ヌッツオと小川里美さんと小林沙羅さんたちが日本語の発声法に合わせて、女性はなよなよと、男性はいかつい不動明王のようで、発声器官と身体器官の繋がりが歌唱法と関係があると気付かされました。私たちは外国語オペラのスタイルに慣れらされてしまっていますが、オペラならこう歌う、というのはないのです。
そして残念なことにラストで、ヒロインが自害してしまうのですが、その頭上から桜の花吹雪が最初はひとひら、そのうち、何枚もはらはらと降ってくるのです。さらに彼女の姿が見えなくなるほど降りしきり、ついには舞台の上に、淡い桜色の雪が深く積もりました。
桜、桜、桜…、日本人の心は桜なのです。桜餅を食べているように胸がいっぱいになり、悲しいほどヒロインの気持ちが伝わってきました。
特攻隊というのは、本当は崇高な使命感などないのです。スターリンの鉄のカーテンと同じように、戦争が人を狂わせてしまうのです。村八分になるのを恐れて、志願してしまう人間の弱さ。
こういった時代の精神がまかり通り、全てが絶望と思われた、8月15日に聖母の奇跡が起こったのは、神のなせる業に他なりません。神は既に私たちの心に何度も回心を呼びかけていたはずですが、音楽が途絶え、勇ましい軍歌に魂は鼓舞され、爆撃や空襲のサイレンの音が日常的になってしまうと、どんな人間でも迷彩色マインドに染まってしまうのです。男は闘わなければならないというのは獲物を捕るためであっても、人と人とが殺し合うことであってはなりません。
聖フランシスコも聖パウロも、戦争で傷ついた若者でした。母の胎内から生まれる瞬間に偶然、立ち合い、赤子の泣き叫ぶ声を聞いた若者は、人間の命の貴さに目覚め、武器を捨てて祈るのです。罪を犯したことのない神のひとり子の姿をその赤子の中に認めたのです。
私は3歳から22歳まで、補聴器を装用していましたが、はっきり言って補聴器を付けても耳に聴こえてくる音は明瞭ではありません。それに慣れてしまうと、暴走族やロック音楽、果ては戦争映画の爆音の方が心地よいと感じてしまうかもしれませんが、自分が心理的にも何等かの異常を被っていることには案外、気づかないのです。グレゴリオもモーツアルトも理解できませんから、精神的にも不安が大きく、はたから見ると落ち着かない子どもだったかもしれません。
そんな私が大きく変わったのは、30代から始めた音楽療法がきっかけでした。音環境によって人間の心も体も大きく影響を受けるということを誰よりも実感した私は、以前よりも音環境に気を配るようになりました。
その一方で、あらゆる騒音から遮断された聴覚障害者の耳は、ある意味でどんな邪悪な世界にも染まらない聖域だと私は思うのです。
今、改めてオペラを振り返ってみますと、三枝成彰の音楽は私の記憶から消えて今、千住先生の舞台と歌手の姿だけが思い出されます。桜の情緒は、日本人の「もののあはれ」の心情を生まれて初めて教えてくれたのです。私にとって、日本人であることは、その文化の素晴らしさに触れるだけでなく、悼みの歴史を伴うものでなければならなかったのです。それが私の因縁の結果とは関係あるかないかではありません。
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