「わたしはアルファ(α)であり、オメガ(Ω)である。最初であり、最後である。(わたしは、乾く者には、いのちの水の泉から、値なしに飲ませる。)」(黙示録21章6節)」と書かれているではないですか?と神父様に質問いたしました。 それに対して神父様は、聖アウグスチヌスの言葉を引き合いに出してこう答えられました。
「初めもなく終わりもないというのはセコンド(時間・分、秒より前の)の時間なのですよ」と。それで私はわかったような、わからないようなという感じで毎回、神父様のお話を聞いていました。
ところがその頃たまたま、日比谷公園内にある日比谷図書文化館で「終わりから始まるものがたり. ―25の問いと100冊の本」が開かれていました。その展覧会の趣旨は「すべてのものごとには「終わり」があります。人の一生も、自然も、文明も、そしてかつては永遠に存在すると考えられていた宇宙でさえも、やがて終焉を迎えます。「終わり」は世界の必然であり、すべてのものごとに潜んでいます」というものでした。今から何十年後、自分はどうなっているか、あるいは何百年後に地球はどうなっているかといった質問に答える映像ゲームがありましたが、後になって神父様のお話はこれとは違った内面的な問題なのだと気付きました。
もう一つ気付いたのは、稲川圭三神父様は手話ができることもあり多分、ご自分の身体を丸ごと投げ出してお話されているらしいという事でした。そこで私が思い出したのは大学時代に保健体育論か何かで読んだメルロ・ポンティの身体運動論でした。それは、一つの対象認識に<精神の中のものであるか<対象の中のものであるか>いう二極対立を超え、私の身体のリアリティは<どちらともいえない>というものです(Wikipediaより)。それである日の聖書勉強会が終わった後、私はその日の午後中ずっと、「初めもなく終わりもない永遠のいのち」とつぶやきながら、歩いたり家事をしたりしていました。そうしましたら段々、その言葉が私自身を変容させてしまったのです。
つまるところ、「初めもなく終わりもないいのち」とは、私達が母の胎内で過ごした時間かもしれません。いやそれ以前のDNAの記憶かもしれません。こうして、「マリアが子を宿しうる処女性」、「おとめである母」(教皇パウロ6世使徒的勧告『マリアーリス・クルトゥス』)という言葉の意味を初めて理解しえたのです。
また、私は5年ほど前にペンシルバニア州フィラデルフィアにあるフランクリン・ベンジャミン博物館で心臓外科手術のハンズオン展示を見たことがありますが、その時に見た心臓の生々しい映像が印象に残っています。心臓は地球のマグマを思わせる程、赤々と鼓動しながら血液を押し出し、身体の隅々まで巡らせるほど力強いものです。神様の愛はそれほどまでに激しいのですから、せっかくいただいたいのちを無駄にしないように次世代に受け継いでいかないといけません。それは遺伝子レベルの問題ではなく、神の愛のなせるわざです。そしてそれには祈りが伴わなければ、永遠性が伴いません。そういった意味での永遠のいのちともとらえることもできます。
さらに私は、永遠のいのちの場所とはどこかしら?心臓かしら?と疑問を持ちました。聖書にはいくらでも追及するテーマがあるのかもしれません。有名な言葉に、「魂を尽くし、心を尽くして汝の神を愛せよ」とありますが、HeartもSpiritsも、mindも心なら、手話で心と表わす時にどこかしら?と手が胸の上をあちこち迷います。愛も聖霊も命も「心」なら、永遠のいのちはどこなのでしょう?
それも、お台場にある日本未来科学館での、脳科学・霊長類学・認知科学などの視点から「生物としての人間」の性質を見る展示で、一つのインスピレーションが与えられました。それは人間の「共感」「同調」「模倣」という心理行為を、チンパンジーと赤ちゃんとで比較したものです。つまり、チンパンジーは手とモノを同時に見るのですが、人間の赤ちゃんは、心を見るのだそうです(松沢哲郎「人間のこと」より)。私達が手を使って報酬を得ようとするのは、チンパンジーと同じなのですね。無条件の愛を知っている人間の赤ちゃんは、それ以前に神の心を与えられているのです。このことは私にとって大きな発見でした。私達は「心」を教育する事によって得るのではなく、それは既にあったのにもかかわらず、私達はそれを忘れてしまっていたのです。そしてその心は心臓部分にではなく、ちょうど天使の羽の付け根部分に知覚センサーが反応したということです。ちょうどお祈りする両手の裏側でした。神様がお創りになった人間の身体の神秘が、このように現れていることに感動しました。
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