救いの水 きよめませ
み体の十字架を 受け入れぬ 頑なな
我を恥じて 主に祈る
(カトリック聖歌集二八七番)
古い蔵造りの建物の中を狭い、急な階段を三階まで上って行き、最上階から順に観ていきます。二階の展示室に入ってすぐのショーケースの向こうに、幽斎の書が掛かっていたのですが、大変な達筆で、その行間には生真面目なお人柄さえ偲ばれました。
しかし、その隣に並んで掛かっている書を観たとき、私の心はかすかに躍りました。幽斎のよりはやや、丸みを帯びていますが、装飾されたアルファベットの筆記体のようにも見えるその作品は、高山右近のものでした。建前がまかり通る武士社会の中にありながら、神と共に生きている人の感受性が筆跡の中に込められており、これが右近の生き様なのだとさえ感じられました。
ところで私の母方の先祖に、戦国時代に肥後藩主の細川家の家臣で、安場九左衛門という人がいました。叔父の安場保吉が編纂した「安場保和伝」(藤原書店)には、次のように記されています。
「祖先は陸奥の豪族といわれ、南北朝時代に安藤姓で南部家に仕えたこともあるが、戦国時代には安藤(伊賀守)守就が西美濃三人衆の一人として、斉藤道三、織田信長に仕えたとも言われている。(中略)この安藤守就は、天正八年に、かつて武田信玄へ嫡子尚就が内通した件にて信長に美濃の領地を没収され追放となる。その後、本能寺の変に乗じ旧領の回復を図るも、新領主の稲葉氏に敗れ討ち死にする。その子は伊賀の安場村に落ち延び、伊賀三郎を名乗り、後、服部姓を称す。成人後、慶長五(一六〇〇)年、丹後の細川忠興に二〇〇石で召し出され、名を安場九左衛門と改める。同年、忠興田辺籠城の折、九左衛門は敵方の小野木緯殿助の営の堀を潜行して中に入り、情勢をさぐって、忠興公に報告し、後その功により、兜に前立てを付けることを許された」
かの有名な細川ガラシャ夫人の事は若い頃から名前だけは聞いており、叔母に連れられて彼女が住んでいた京都・長岡京市の勝竜寺城址を訪ねたこともあります。しかし、どういうわけかこのガラシャが、安場と深い繋がりがあることは、最近まで知りませんでした。学芸員の資格を取るために今、博物館などを回って調査研究をしていますが、先々月に、東洋文庫で開催されていた「東洋の貴婦人 マリー・アントワネットと細川ガラシャ」展に行く機会がありました。ガラシャ所縁の様々な展示物を観終えた後、何か魂の奥底から呼びかける声が聞こえ、それまで何度も読もうと思いながらなかなか読まなかった三浦綾子の「細川ガラシャ夫人」をやっと購入したのです。
身内に近い人だからというわけではなく唯今、高山右近の列福調査も進んでいる故、何か右近についての真実を掴もうと、この小説を読んでいる間は自分もガラシャ夫人になったような気さえするのです。その上で、右近と幽斉の書を観た後でしたから、お二人の人となりが本当に生き生きと伝わってきて、歴史小説が何倍も面白くなってきます。学芸員冥利といいますか、気難しいイメージのある博物館でもこういう使い方もできることは大きな発見でした。この右近ですが、幽斎の息子の忠興夫人であるガラシャでさえも心惹かれる高潔なお人柄だったそうです。やはり不思議に思うのは、カトリック大名としてよく知られ、利休の七哲に数えられながら、戦国名武将であり、戦にも長けた人であったということです。
私は数年前に、上智大学外国語学部仏語学科の名誉教授で、外国語教育の専門家のイエズス会のカナダ人のクロード・ロベルジェ神父様と日本人の言調論について話した事がありますが、この時、教授が正月に大相撲の初場所を観たのか、
「日本人って、格闘の合間に礼儀正しい挨拶をするんだな」
とか言って驚いておられた事がありました。右近の戦と茶道の感覚もそれと同じかもしれません。
それより数年前に女子大付属高校で英語を教えているアメリカ人の言語学者 のマーク・レッドベター先生が、日本人は「膠着状態に陥る癖がある」と言っていましたが、左脳型の日本人は、第二次世界大戦も特攻隊も実は、使命感というものはほとんどなく、単に脳のバランスを取ろうと選択した道が戦争だったということかもしれません。
恐ろしいことですが、茶道のお点前で、茶筅を持ったお手付きがそのまま、刀に代わってもおかしくないと思うことがあります。
昨日、平和旬間のミサがカトリック成城教会で、森一弘司教様司式で執り行われました。その時の閉祭の歌が、「平和の歌―ヌチドゥ・タカラ」でした。
戦争は人間の仕業
平和は正義のわざ
愛の実り
剣は鋤に 槍は鎌に 打ち直そう
戦争は愚かなこと
ヌチドゥ・タカラ ヌチドゥ・タカラ
与えられた あらゆるものの命を 大切にしよう
緑茶は、湿気の多い日本の気候に合っており、サバサバした和やかな味がして、茶道は葡萄酒を使われるカトリックのミサとよく似たお点前が見られることはよく知られています。しかし、生け贄の仔羊の血を奉る聖餐式は、血も涙もない戦場から戻り、血生臭い記憶を浄める茶道とは違って、罪の無いイエス・キリストの血潮を通して、憐みの人となる恵みの儀式といえるのではないかと私は思います。
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