しかし半分以上見終わったところで私は、左隅の部屋で四方に絵で囲まれた一つの小品を見つけたのですが、私はその作品の作者に見覚えがありました。日曜日のミサの典礼でお目にかかっている、A:カルペンティーノ神父様の彩色版画でした。そしてその絵を見た瞬間、魂の奥底から「いのちの泉」が湧き出でてきて疲れ切った感性の目が癒されたのです。
ところで私は、小学校の6年間は渋谷教会に通っていました。カルペンティーノ神父様が居られるドミニコ会が経営している教会です。当時、私はどこの子供にでもあると思いますが、視覚の上である超感覚を持っていました。しかし成長するに従い、他の感覚が発達していく過程で、それは茨(いばら)の茂みの中に隠れ、忘れ去られてしまいました。
ところが昨年、臨床美術士の資格を取得したのですが、その時に久しぶりに大脳生理学の勉強をしまして、脳の視覚領域図を見てハッと思いだしたのです。人間は情報の80%を視覚から得ていると言われていますが、教会建築や聖堂の装飾を通して私たちは「神のご臨在」をどこまで感じているのでしょうか?
前教皇ヨハネ・パウロⅡ世は『希望の扉を開く』(同朋社出版)の中で、「神との直接体 験は、神と「顔と顔を合わせて(コリント13・12)知ることでも、神を神としてあるがままに知ることでもありません」と述べています。
また教皇様によれば、神様は「かくれんぼ」がお好きだそうですが、「神の顔を直視しようとして「後ろ姿」(出エジプト33・23)しか見ることができなかったモーセ」と同じように、私も麻布教会の聖堂で後ろを振り返ってみました。そしてあのカルペンティーノ神父様のステンドグラスがそこにもあるのを見つけ、感動したのです。
つまり、私のあの超感覚だと思っていたのは私の中に内在する「神のまなざし」だったのです。麻布教会聖堂は、私たちの魂の中に神を見出す不思議な玉手箱なのです。
子どもの頃から耳の不自由な私にとって、教会聖堂は神と出会う不思議な隠し絵が沢山ある場所でした。教会ではお祈りしたり歌をうたったりするだけでなく、一度限りの展覧会よりも、何回も素晴らしい美術作品を見る事ができるのです。
さあ、皆さんもミサのない時に聖堂を訪ねて、神探しをしてみませんか。
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