2013年1月16日水曜日

「ユスト高山右近の脳」

  昨年の初めころに、研究論文の一つの区切りとしてハーマン脳モデルのファシリテーターの資格を取得しました。これは従来の左右脳論をさらに辺縁体と大脳新皮質とに分けたもので、4つの象限になっています。これにより被験者の思考の癖を診断し、適性診断やコミュニケーションギャップの解消を図ることができるのです。

面白い事に歴史上の偉人でも、彼らの遺した文献などを基にそれぞれの脳のタイプを知る事もできます。事実的、形式的、感覚的、未来的な脳がありますが、あの有名な現代の聖女マザー・テレサは感覚型だそうです。後に述べる高山右近も書道と絵画、詩歌にも秀でていたそうですから、大体同じような脳かもしれません。シュバイッツアーがちょうど真ん中で他の聖人は調べないとわかりませんが、イエス様はそれを中心に十字架のように位置するのでしょう。

さて、安土桃山時代のカトリック大名高山右近は、書道と絵画、詩歌にも秀でていたそうですから感覚的にも優れていたと思われますが、先見の明に優れていたため未来的な要素も含まれています。時の施政者にはその誠実な人柄故に信頼されましたが、間違った政治的発言に対して勇気を持って意見を述べ、子どもの教育においても信仰を貫くように導き、脳の(人間性といった方がいいかもしれませんが)全ての面においてバランスの取れた方と推定できます。

私は、普段あまり小説は読みませんが、文学が感覚型にカテゴリー化されているので、本当に脳のバランスを取れるのか試しに、三浦綾子さんの「千利休とその妻たち」(新潮文庫)を読んでみました。

ところでなぜ千利休なのかと云いますと、母方の祖母が表千家の名師匠だった事もあり私は幼少のころから時々、お茶席にお相判しておりました。清々しいけれど隙のない厳しい日本の伝統文化と、神様の懐で自由に遊び戯れた放縦すれすれの青春時代と、それぞれ豊かな時間を思う存分、享受していました。しかしある時、イエズス会のピーター・ミルワード先生の「ミサと茶の文化」などの本を読む機会があり、私の中で長い間、二元論のままに残っていたこの二つの神概念が見事に融和されたのです。高山右近によれば、茶道は神との高尚な「遊び」であり、また福音の神髄を知る一つの手段となっていますが、千利休の所縁のものから何かイエス様のメッセージがわかるかもしれないと思ったのです。

「千利休とその妻たち」では、織田信長や豊臣秀吉などの戦国時代の名武将たちとの様々な駆け引きが繰り返されますが、いわゆる表に出ない微妙な心の襞まで書き表されているところはシェイクスピアの戯曲と似ています。信長や秀吉などの脳もハーマンで分類されているので、それに合わせて物語を読み進めていくと、それぞれの人物像が生き生きと浮かび上がってきます。

また私の母方の別の祖先が熊本の細川幽斎親子の旗本でしたが、利休の高弟と云われる七哲の一人でした。同じ七哲で信長と秀吉に仕え、列福調査中の右近も登場しており、その人となりが詳しく書かれています。

身近な人が出てくるので、かなり感情移入してしまいましたが、大きく拮抗する時代の権力の中で切支丹たちは、何のために犠牲になったのでしょうか?それだけ時代が「遠野物語」の苦しみに満ちており、迷信に従うよりも真の神の愛を悟った人たちがいたからです。愛を知らない臆病な施政者による迫害は、ホロコーストと同じように見えます。私たち日本人はアウシュビッツのユダヤ人には同情するのになぜ、切支丹迫害に対しては何も感じないのでしょうか?

鉄砲が伝来した直後に、キリスト教が人類の救いのために日本に入ってきたのです。ミルワード先生によりますと、茶道のお点前がミサの儀式の仕草と殆ど同じものがあるため、フランシスコ・ザビエルと千利休との間に親密な接触があったことは疑えません。最初はブランド品と同じで物珍しさで広まったキリスト教もその勢力が広まるにつれて、時の勢力者がキリスト教徒を異端分子として恐れたために抹殺されてしまったようです。

第二次世界大戦も、聖母マリアのとりなしが無ければ終わらなかったように、戦争(政治)とキリスト教は切っても切れない縁があります。社会学者の鶴見和子が云っているように、男性社会では自分の足元が見えなくなりがちです。原発問題や憲法九条問題など、目に見えない不穏な悪の力がはびこっている今、権力者の身近にいる人(特に婦人方)こそが立ち上がり、賢明な良心を示すべき時代が来ていると思います。

高山右近については、日本カトリック司教協議会 列聖列福特別委員会が2012年に発行した「現代にひびく右近の霊性」を参考にいたしましたが、右近の視点から日本における私たちの信仰のあり方を考えていきたいと思います。

 

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