こんにちは。 すっかり秋が深まって参りましたが、その後お変わりございませんか?
私は今年の12月27日に、東京文化会館で開催される、ベートーベン「第9」の合唱舞踊劇「ルードヴィヒ」に出演するのですが、さっきリハーサルの時間を間違えてしまい、3時間半ほど空き時間が出来、こうしてSさんにお手紙を書いています。 そもそも私が、合唱団の連絡事項を聞き違えたことから、こういう間違いが起きたのですが、「失敗は成功の元」、スタッフの方々もこうして、聴覚障害者の対応についていろいろ学んでいただけたらと思っています。
ところで私は、手話は高校2年の時に上智大学の文化祭で手話ソングを見たのが初めてで、その後30代に入ってから聴覚障害児のための音楽ワークショップという、ボランティア活動で、早大の手話サークルのメンバーの手話を見よう見まねでやっていましたので、学生手話(というものは本当はないですが、コンパ系の)がほとんどです。 そして今春に麻布教会に、カトリック聴覚障害者の会の稲川神父様が異動なさったこともあり、やっと典礼手話を覚えることができました。
ただ私は、もともと手話のネイティブスピーカーではないし難聴でしたので、失聴した時から聴能訓練ばかりしていました。生活の中で手話を使うのは、一日単位ではなくて、1週間に1日それも、数時間あるかないかです。それに3歳の時から約20年余り、補聴器を左耳に装用していましたので、その後、後遺症のために額関節症にかかってしまい、さらに今年の3月の終わりにガレージの掃除でホコリアレルギーになってしまいました。そのため、左右どちらかの腕が同時に動けなくなることがたまにあり、慣れているお祈りの言葉や短い単語は大丈夫なのですが、手話だけでのコミュニケーションとなると、もうすっかりお手上げです。
実は、亡くなった母が1990年にアメリカの障害者法(ADA)に刺激を受けて、教会に手話通訳の付けるように要請する手紙が数年前に出てきました。あれから22年経ち、今度は聾者と難聴者との間でいろいろ問題があることが明るみになってきました。それより前に一般社会では既に問題になってきていたのですが、難聴者の立場から私の場合に限って言いますと、聴能と言語のリハビリのために人一倍、よく聞き、喋る必要があり、聴覚につながる身体全体の構音器官をどんどん使わなければ、鈍り易いのです。
従って、同じように手話を使ったとしても、脳の言語野においては、聴覚、視覚をフル稼働して大脳皮質の運動神経野も使い、不自由な耳と口をコントロールして喋ります。かといってこういった発話行為は決して、苦痛ではありません。聴こえないから黙っていて、と言われると時として、エネルギーが鬱屈してしまう事もあります。人と会って喋るのは好きですが、「口は災いの元」ですから、合唱団に入ったりしてるわけです。
それから9月にいただいたお手紙の中で、田辺さんという方が人工内耳をされていたという事が書かれていましたが、私も10年程前に、慶大病院で勧められた事があります。最近、知り合った人工内耳の会の方や、国際医療福祉大の先生にもセールスされました。しかし私はそういった話には、次のように言ってお断りしています。
私は大学在学中に心理学関係の講義で、アメリカのSF映画「アルジャーノンに花束を」を観た事があります。モノクロからカラー時代になったばかりの映画で、ややレトロ調の映像だったのを覚えています。そのストーリーというのが、アルジャーノンという青年に、知能を高めるための脳外科手術をするというもので私は、その上映中に気分が悪くなって教室を出て、下痢と吐き気をもよおしてしまいました。一緒に講義を受けていた他の学生は誰もそのような反応はなかったのですが、それは私が、子供の頃から補聴器を頭部に装着していたためと、それが左耳であったことから、感受性が人一倍、敏感になっていた事が原因と考えられます。
それ以来、私の感覚の中で「ロボトミー(脳外科手術)」に対する拒絶感が起こるようになり、人工内耳をと勧められて「ロボトミー!」と叫んでしまいました。医者にとっては人工内耳手術をの際に、標本ではない本物の人工内耳を観察できるわけですから、何気なく言ったとしても、切られる側としては「人体実験」じゃないかと思ってしまうんですね。
聴覚の回復の見込みのなくなった子供に、万が一の望みを託して親御さんが、人工内耳手術をしてでも子供の耳を治してあげたいと思う気持ちはよくわかります。今まで全聾と言われてきた子供達が、トレーニング次第で聴こえ、喋れるようになったというデーターもありますし、人工内耳が是か非かと今は私には言える立場でないこともわかっています。
しかし、よかれと思ってしたことが逆にトラブルの元になり、人間関係をも壊しかねません。 医学の進歩は素晴らしいと思いますが、個人的な関わりにおいて第三者の側からの無神経な発言があり、ちょっとやり過ぎと思う事があります。聴覚障害者の中にも体質によって、補聴器や人工内耳を付けたくないというデリケートな人がいるということをもっと知り、発言を控えてほしいと思っています。
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