まずお説教ですが、歴代誌(下36-14~23)と詩篇137-1~6と合わせて読むと、時代背景がわかるということ、パウロのエフェソの手紙(2-4~10)では善行ではなく、神への信仰によって救われたという賜物について、そしてヨハネ福音書で、神が私たちのために何を行って限界(思い込みや常識など)があるから、神の声、人知を超えたものに耳を傾けるための宗教が必要だということでした。
続いての黙想会では、聖書が述べる罪と悔い改めについて講釈されました。神父様によれば、誰の目にもわかる外に現われた罪は氷山の一角で、それらはすべて深い根っこがあるということです。「兄弟に「ばか」と言う者は、最高法院に引き渡され、「愚か者」という者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイ5-22)。私たちは毎日何度、口の中で殺人を犯しているか、それは口もまた人を殺す凶器となり、相手の心に傷を負わせているという厳しいものでした。聖書は、日本人の普通の発想とは違うということなのです。
続いて、「義とされなかったファリサ派の人」(ルカ18-9~)。この箇所のキーワードは「うぬぼれ」です。罪人ということをイエス様の教えで捉えています。辞書に記されている本来の意味ではなく、「自分に頼ってしまう」ことつまり、神様ではなく自分に頼ってはいけないということでした。難しいですが「うぬぼれ」の根拠には他人との比較があり、このような姿勢は神との関わりを妨げてしまって、人との関係も絶たれてしまうのです(HP「福音のヒント」より)。神に頼るというのは、自分の無力さを知ること、弱さは欠点ではなく、神に出会う好機です(「小石のひびき」(女子パウロ会)より)。罪の問題は面倒な問題で、人間が罪を処理することはできないと聖書では考えており、神だけが罪を赦すことができるという発想なのです。
3番目は、旧約と新約とでは信仰の方向性が違うということ、私たちはすでにイエス様に出会っているので、「尋ね求め」たり「呼び求め」たりする必要はない、私たちはただイエス様に聞き従えばいいのだということでした。イザヤ55章を引き合いに出して、神から見れば人間の思いはしょせん、くだらない「たくらみ」に過ぎない。なぜなら神様の思いは、私たちのとは異なり、高く超えているからです。神の道と人間の道、それは天と地ほどの差があります。それを、コンチェトリック(構成法)を使って解き明かしてくださいました。「雨も雲もひとたび天から降れば、虚しく天に戻ることのない」ように、神の言葉も必ず出来事になり、「わたし(神)が与えた使命を必ず果たす」ことになるのです。
詩篇32章‐1~5節では、「いかに幸いなことでしょう」と2回、同じ言葉が繰り返されます。これを「アシュレイ」と云いますが、罪を赦された者の喜びが伝わってきます。罪を黙し続け、絶え間ない呻きと重くのしかかる御手にたまらなくなって罪を神に示した。罪の告白とは誰もが嫌なものという先入観がありますが、それがヘブライ語では「感謝」と同じ動詞を使っているのだそうです。
それはどういうことなのか、最後にイザヤの44章が読まれました。日本語辞書と聖書では、「悔い改め」は意味がまったく分けられており、「立ち帰る」と訳されています。神の国では、「立ち帰る場所のある悔い改め」が用意されているということでした。私は幼児洗礼でしたので、小学校低学年の頃から告解をしなさいと言われ、何を言っていいかわからないまま「お兄ちゃんと喧嘩しました」と言いました。それだけでも神父様から赦しますと言われると心が弾んだことを覚えています。つまり、赦しの秘跡とは自分で自分を誤魔化すのではなく、神との対話の第一歩ですから、「喜んで打ち明けましょう」ということなのだと思いました。
最後にこの場を借りて、横浜教区要約筆記サークル「イサクの会」の田中さん、新田さんにお礼を申し上げます。ありがとうございました。